小早川興景とは? わかりやすく解説

小早川興景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/10 09:07 UTC 版)

 
小早川興景
時代 戦国時代
生誕 永正16年(1519年
死没 天文10年3月27日1541年5月3日[注釈 1]
別名 四郎[1]
戒名 法常寺體岩全公[1]
墓所 竹原小早川氏墓所(竹原市東野町2002)
官位 中務少輔[1]
幕府 室町幕府
主君 大内義隆
氏族 桓武平氏土肥氏流小早川氏
父母 父:小早川弘平[1]
正室:毛利興元の娘毛利元就の姪)
養子:隆景[1]
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小早川 興景(こばやかわ おきかげ)は、戦国時代武将安芸国人領主。竹原小早川氏の第13代当主。父は12代当主・小早川弘平。妻は毛利興元の娘(毛利元就の姪)で、元就の義理の甥。養子の小早川隆景は義理の従弟に当たる。

略歴

永正16年(1519年)、小早川弘平の子として生まれる。弘平没後、家督を相続して当主となる。大内義興から一字を頂き「興景」と名乗る。

大内氏の有力な国人として尼子氏との戦いに従軍し、天文10年(1541年)に元就が尼子詮久の侵攻に対し吉田郡山城で籠城した際(吉田郡山城の戦い)には、援軍として毛利氏の救援に赴いた。

その年、大内氏の命令に従って元就らと共に安芸武田氏の居城である銀山城の攻略に向かったが、陣中において病を発し病死した[2]享年23。

興景には男児がなく、元就の3男・徳寿丸(後の小早川隆景)が養子となり家督を相続した[3]

脚注

  1. ^ 死没年月日を天文12年3月27日とする文献もある[1]
  1. ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 341.
  2. ^ 渡辺、川上, p. 11.
  3. ^ 渡辺、川上, p. 12.

参考文献





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