小早川景平とは? わかりやすく解説

小早川景平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/31 09:06 UTC 版)

 
小早川 景平
時代 鎌倉時代初期
生誕 不詳
死没 寛元2年7月14日1244年8月18日[1]
改名 万寸丸→景平
別名 万寿冠者[1]、小早川次郎(二郎)[1]、兵衛尉
戒名 法名:常誉院清山浄公[1]
墓所 広島県三原市の東盧山米山寺
官位 左衛門大夫
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝藤原頼経
氏族 清和源氏義光平賀氏
桓武平氏良文流土肥氏庶流小早川氏
父母 父:平賀義信[1]、養父:小早川遠平[1]
兄弟 大内惟義、平賀隆信、小野朝信、平賀朝雅小早川景平
義兄:土肥維平
茂平[1]季平[1]、飯泉景光[1]、小松時景[1]
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小早川 景平(こばやかわ かげひら)は、鎌倉時代初期の武将安芸国沼田荘を支配した鎌倉幕府御家人

生涯

平賀義信の五男で、土肥遠平の養子となった。 建永元年(1206年)、所領の安芸国沼田荘を嫡男の小早川茂平と次男の小早川季平に分割相続させ、幕府に申請した。翌年、源実朝北条政子の安堵下文を得て、幕府に認めさせた。また、三男の景光に相模国成田荘内の飯泉郷(飯泉氏)、四男の時景に小松を譲った(小松氏)。

建暦3年(1213年)の和田合戦で、遠平の嫡子土肥維平和田義盛に味方して捕らえられ処刑されたため、土肥氏嫡流も継承した。

景平以降、嫡子以等が次々と別家を立て、小早川氏の一門・譜代の家臣となり、主家を支えるようになった。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 今井尭ほか編 1984, p. 340.

参考資料





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