小早川能久とは? わかりやすく解説

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小早川能久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 13:41 UTC 版)

 
小早川 能久
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 寛文6年4月17日[1]1666年5月20日
改名 小早川元規[1]→小早川能久
別名 小早川式部
通称:大学[1]、式部[1]
戒名 浄光院日峯全照[1]
墓所 玄済寺(山口県山口市吉敷佐畑)
主君 毛利秀就徳川頼房松平頼重
長州藩水戸藩高松藩
氏族 桓武平氏良文流土肥氏庶流小早川氏
父母 父:小早川秀包[1]
母:桂姫大友宗麟の娘)
兄弟 毛利元鎮[1]、女(井原元以室)[1]
女(毛利元景室)[1]毛利元貞[1]
女(桂繁政室、井原元栄室)[1]
於佐手(吉田重成室)[1]能久
女(臼杵統尚娘、益田景祥室)[1]
不詳
喜太郎(早世)[1]、女(戸祭主水室)[1]
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小早川 能久(こばやかわ よしひさ)は、江戸時代前期の武士小早川秀包の三男。通称は大学、式部。小早川式部の名で兵法家としても名を残す。

生涯

小早川秀包の三男として生まれる。毛利秀就に仕えたが、故あって牢人となる。江戸滞在中に水戸藩主・徳川頼房に召し出され、松平頼重附家老となった。

また、能久は兵法家でもあり、小幡景憲甲州流軍学を学んで『翁物語』(成立は1652年以前)を著した。能久の流れは、筑前福岡藩に伝わった。

寛文6年(1666年4月17日に死去[1]。子の喜太郎が早世したため嗣子がなく、能久の死により小早川家は断絶した[1]

系譜

脚注

参考文献




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