逸話と人物像
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三成は多くのエピソードを持つ武将であり、それが三成の人物像形成に大きな影響を与えている。ただし他の戦国武将同様それら「逸話」の多くは本人死後の江戸時代に記された書物(二次史料)にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みには出来ない。特に出世のため他人を陥れる器の小さい野心家として描かれた逸話が多いが、三成が江戸幕府の治世下において、幕府を築いた神君家康と多くが加増された東軍諸大名に敵対した仇役という立場にあった点は注意を要する。近代に入ると渡辺世祐による『稿本石田三成』の刊行など、実証史学に基づいた奸臣三成説の見直しを中心に正確な三成像を探る研究が進められるようになった。 近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山の観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。 三成を「かずしげ」と呼んだとする説が『甲子夜話』などに載せられているが、三成の自筆仮名消息が現存しない上、三成の若い頃には「三也」と書かれた署名が存在していること(ただし、これは初名であるとする考えと「成」と「也」を併用していたとする考えがある)、三成から一字を与えられた相馬三胤が関ヶ原の戦い後に「蜜胤」と改名していることから、「蜜」「也」と同音である「みつなり」の読み方で正しいとみられている。 秀吉が開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出た膿が茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたという。ただし本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治のジャーナリストであった福本日南が明治44年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた茶を飲んだ話として記載されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい。」と述べている。 三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げている他、他の文書などから真田信幸や織田秀信、津軽為信、斎村政広と親密な交際を持っていたことが確認できる。 ある年の10月、毛利輝元から季節外れの桃が秀吉への献上品として届けられた。三成は毛利家の重臣を呼び、「時節外れの桃とはいえ中々見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家の聞こえも悪くなりましょう。ゆえに時節の物を献上なされよ」と返却した。心ある人は「もっともな事であり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家で公に最も信任されているのだ」と評したが、その他の人は秀吉の権勢を笠に着て横柄だと評したという(小早川能久『翁物語』)。 小田原征伐の際、三成は忍城攻略に参加する。『関八州古戦録』(1726年成立)等の二次史料には、忍城が要害にあり、城方の兵糧の備蓄も十分である事を理由に、三成が水攻めを発案し堤防を築くが、これが豪雨による増水によって決壊したため作戦が失敗に終わったと記されている。これは三成の戦下手の根拠とされる逸話である。しかし天正18年7月3日付浅野長政宛秀吉朱印状には秀吉自身が水攻めを指示したことが明記されており、また作戦実行にあたっては浅野長政、木村重茲らの指示を仰ぐなど、三成は秀吉が立案した作戦の下、現地での作業を指揮する立場でしかなかったようである。 『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役の時、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三名が軍議のため黒田孝高と浅野長吉(長政)を訪ねたが、両名は囲碁に興じて三奉行と速やかに対面しようとしなかった。これを恨んだ三成が秀吉に讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉の怒りを買い疎んじられるようになった、というものである。しかし、文禄2年8月に秀吉が黒田長政に送った朱印状によれば、孝高が成敗直前に至るほどの怒りを買ったことは事実であるものの、原因は讒言ではなく秀吉の許可を得ずに帰国した孝高自身にあったことが判明している。 文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居を命じられた加藤清正が、慶長元年(1596年)閏7月に起きた慶長伏見地震の際、伏見城の秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰を解かれたとする、いわゆる「地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立の清正記系諸本を出典としており、清正自身の記した書状を含め当時の一次史料にこれを裏付けるものは無い。清正が地震後の7月15日に発給した書状に伏見の清正邸が建築中であったことと、京から胡麻を取り寄せるようにとの指示が記されていることから、地震発生時清正は京にも伏見にも居なかったと考えられる。 慶長3年(1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋の行動が軽挙であるとして三成が秀吉に讒言した。そのため秀秋は越前国への転封を命じられるも徳川家康の執り成しによって免れたとする説がある。ただし出典は寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦いに参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣の山口宗永であったうえに、越前転封も実現していることから史実とは考えられない。 関ヶ原の戦いの際、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子に自害され、加藤清正、黒田長政らの一部大名妻子の逃亡を許すなど策は不完全なものとなった。また、この処置が結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある。しかし大名妻子に対する人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政権の政策として用意されてきたものであって、三成個人の発案ではない。また三成は慶長5年9月12日付増田長盛宛三成書状(『愛知県史資料編13』1019号文書)において大坂における人質の扱いが寛大であることに不満を漏らすと共に、人質を安芸国宮島に移すことを提案しており、人質の処遇について一方的に命令出来る立場では無かったようである。 関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、その時、住職の善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れかつ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。捕縛された際の三成は樵の振りをして身には襤褸をまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠にて顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』)。この時、与次郎が死を覚悟で三成を匿ったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。 しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。 家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』、寛永年間成立)。 三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。(『明良洪範』享保以降成立)。この逸話は三成の志を示すものと解釈されることが多いが、せいいっぱいの親切をつまらぬ理由で無下にしてしまう三成の器量の限界を示すとの解釈もある。なお、横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候」と書いていることや、他にも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、干柿の逸話とも関連がある可能性がある。 三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城で曝された。この時、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『武功雑記』、寛文年間成立)。 関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。思えばあの時、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍『遺老物語』)。 以下の逸話は明和7年(1770年)成立の『常山紀談』を出典とする。 石田家中で行われた密議での話。三成に対して家臣の島左近は「豊臣家のために決起するのであれば即断すべきであり猶予は不要でした。しかし好機は逸してしまい、家康に味方する者も多く、当家の存亡は予測が出来ません。ここは筋を曲げてでも今まで疎遠であった諸大名と遺恨なきよう親交し、時を待つのが策ではないか」と進言した。これに対して三成は「一時の成功よりも、事が起きた後いかに平穏にさせるのかを考えるべきである」と受け入れなかった。三成が来客のため場を離れると三成家臣の樫原彦右衛門は左近に向かって「あなたの言うことがもっともである。松永久秀と明智光秀は悪人であったが決断力は人並みではなかった」と言った。その後、関ヶ原の戦いの前の事。家康は島左近の動静を探るべく同じ大和国出身の柳生宗矩を左近の許に送り込んだ。二人の話が天下の趨勢に及ぶと左近はその密議の事を思い出して「今は松永や明智のような決断力と知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう」と語った。 家康の会津征伐に従軍しようとしていた大谷吉継は三成から佐和山城に招かれた。三成は「豊臣のために上杉景勝と打倒家康の策を練っていた。上杉が立った以上これを見殺しには出来ない」として挙兵の決意を語った。吉継は「ならば秀頼公に命を捧げよう。しかし大事にあたって気掛かりが二つある。まず世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く一方、家康は下々の者にまで礼をもって接するので人望がある。次に石田殿には智はあっても勇足りないと見える。智勇二つを持ち合わせねば事は成し遂げられないだろう。毛利も宇喜多も一時の味方であって頼りならない。家康の関東への帰路で夜討ちをかけておけば勝利は疑い無かったが、既に手遅れだ。悔いても益は無いので、このうえは秀頼公ために戦う以外道は無い」と三成を諫めつつ挙兵に同意した。 家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままである事を聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った。
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