逸話と人物像とは? わかりやすく解説

逸話と人物像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:33 UTC 版)

石田三成」の記事における「逸話と人物像」の解説

三成多くエピソードを持つ武将であり、それが三成人物像形成大きな影響与えている。ただし他の戦国武将同様それら「逸話」の多く本人死後の江戸時代記され書物二次史料)にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みには出来ない。特に出世のため他人陥れる器の小さい野心家として描かれ逸話が多いが、三成江戸幕府治世下において、幕府築いた神君家康多く加増された東軍諸大名敵対した仇役という立場にあった点は注意要する近代に入ると渡辺世祐による『稿本石田三成』の刊行など、実証史学基づいた奸臣三成説の見直し中心に正確な三成像を探る研究進められるようになった近江国のある寺院に、鷹狩り帰りにのどの渇き覚えた秀吉立ち寄り寺小姓所望した際、寺小姓最初に大きめ茶碗にぬるめのを、次に一杯目よりやや小さ茶碗にやや熱めのを、最後に小振り茶碗に熱い出した。まずぬるめの喉の渇き鎮めさせ、後の熱い充分味わわせようとする寺小姓細やかな心遣い感服した秀吉は彼を家臣とした。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に三杯三献)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山観音寺滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは福寺とされている。前者石田家本拠であった石田村近く三成庇護与えていたこと、後者三成母方岩田家本拠である杉野村近く何よりも関ヶ原の合戦敗れた三成落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かった考えられる。ただし、この逸話載せられている史料江戸時代のもの(正徳6年1716年成立の『武将感状記』など)であること、また三成息子記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成秀吉仕えたのは18歳時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。 三成を「かずしげ」と呼んだとする説が『甲子夜話』などに載せられているが、三成自筆仮名消息現存しない上、三成若い頃には「三也」と書かれた署名存在していること(ただし、これは初名であるとする考えと「成」と「也」を併用してたとする考えがある)、三成から一字与えられ相馬三胤関ヶ原の戦い後に「蜜胤」と改名していることから、「蜜」「也」と同音である「みつなり」の読み方正しいとみられている。 秀吉開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗回そうとしたが、顔から出た膿が落ちてしまった。以降諸大名口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗回していったが、三成躊躇わず飲み干したそれ以降二人の間には厚い友誼結ばれたという。ただし本郷和人によると、この逸話典拠不明で、江戸時代遡ることが難しく明治ジャーナリストであった福本日南明治44年1911年)に刊行した英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた飲んだ話として記載されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースご存じの方、ぜひご教示下さい。」と述べている。 三成自身書状で特に親しかった武将として小西行長寺沢広高挙げている他、他の文書などから真田信幸織田秀信津軽為信斎村政広親密交際持っていたことが確認できる。 ある年の10月毛利輝元から季節外れ秀吉への献上品として届けられた。三成毛利家重臣呼び、「時節外れとはいえ中々見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家聞こえ悪くなりましょう。ゆえに時節の物を献上なされよ」と返却した心ある人は「もっともな事であり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家公に最も信任されているのだ」と評したが、その他の人は秀吉権勢笠に着て横柄だ評したという(小早川能久『翁物語』)。 小田原征伐の際、三成忍城攻略参加する。『関八州古戦録』(1726年成立)等の二次史料には、忍城要害にあり、城方兵糧備蓄も十分である事を理由に、三成水攻め発案し堤防を築くが、これが豪雨による増水によって決壊したため作戦失敗終わった記されている。これは三成の戦下手の根拠とされる逸話である。しかし天正18年7月3日浅野長政秀吉朱印状には秀吉自身水攻め指示したことが明記されており、また作戦実行にあたって浅野長政木村重茲らの指示を仰ぐなど、三成秀吉立案した作戦の下、現地での作業指揮する立場でしかなかったようである。 『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役の時、石田三成増田長盛大谷吉継三名軍議のため黒田孝高浅野長吉長政)を訪ねたが、両名囲碁興じて三奉行速やかに対面しようとしなかった。これを恨んだ三成秀吉讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉怒りを買い疎んじられようになった、というものである。しかし、文禄2年8月秀吉黒田長政送った朱印状によれば、孝高が成敗直前に至るほどの怒り買ったことは事実であるものの、原因讒言ではなく秀吉許可得ず帰国した孝高自身にあったことが判明している。 文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居命じられ加藤清正が、慶長元年1596年)閏7月起きた慶長伏見地震の際、伏見城秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰解かれたとするいわゆる地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立清正記諸本出典としており、清正自身記した書状含め当時一次史料にこれを裏付けるものは無い。清正地震後7月15日発給した書状伏見清正邸が建築であったことと、京から胡麻取り寄せるようにとの指示記されていることから、地震発生時清正は京にも伏見にも居なかったと考えられる慶長3年1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋行動軽挙であるとして三成秀吉讒言した。そのため秀秋越前国への転封命じられる徳川家康執り成しによって免れたとする説がある。ただし出典寛文12年1672年成立の『朝鮮物語』である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦い参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣山口宗永であったうえに、越前転封実現していることから史実とは考えられない関ヶ原の戦いの際、会津征伐従軍していた諸大名妻子人質取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子自害され、加藤清正黒田長政らの一部大名妻子逃亡を許すなど策は不完全なものとなったまた、この処置結果的に東軍諸大名敵対心煽ったとする評価もある。しかし大名妻子対す人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政政策として用意されてきたものであって三成個人発案ではない。また三成慶長5年9月12日増田長盛三成書状(『愛知県史資料131019文書)において大坂における人質扱い寛大であることに不満を漏らすと共に人質安芸国宮島に移すことを提案しており、人質処遇について一方的に命令出来立場では無かったようである。 関ヶ原の戦い敗走した三成は、自身領地である近江国古橋村身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、その時住職善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え善説呆れかつ恐れさせたとされるその後与次郎太夫という百姓招きで、山中岩窟身を隠した与次郎はこの時、徳川軍による咎め責任一身引き受けるために妻を離縁し刑死覚悟三成介抱した三成はこの義侠心感じ入り与次郎咎め及ばないよう、与次郎説得して自分居場所徳川軍告げさせた。徳川軍代表して三成捜索当たっていた田中吉政は、近辺々に対し三成生け捕りにした場合にはその年貢永久に免除する生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両与える、逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑する触れ出していたが、最終的に与次郎三成説得に従って自首したため、虐殺免れている。捕縛された際の三成振りをして身には襤褸をまとい、兵糧米を少し持ち破れ笠にて顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』)。この時、与次郎が死を覚悟三成を匿ったのは、かつて古橋村飢饉襲われた際、三成村人たちを救うために米百石分け与えたことがあり、与次郎そのこと深く恩義感じていたためとされる。 しかし他説では、三成村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康一戦交え天下統一する所存であるからだ。天下統一暁には古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い村人達はこの言葉惹かれ三成を匿った。しかし、隣村出身与次郎太夫養子であった者が裏切って徳川軍密告したため三成捕らえられたとする。これ以降古橋村では他村から養子取らない慣習ができたという。 家康従軍した板坂卜斎陥落した佐和山城金銀が少しもなく、三成殆んど蓄え持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』、寛永年間成立)。 三成京都の町を引廻されている最中飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、がなかったので干柿差出された。三成は「痰の毒であるから食べないと言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望達したいと思うから」であると答えた。(『明良洪範享保以降成立)。この逸話三成の志を示すものと解釈されることが多いが、せいいっぱいの親切をつまらぬ理由無下にしてしまう三成器量限界を示すとの解釈もある。なお、横浜一庵から100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候」と書いていることや、他にも三成への贈答記録されたことから、三成好物だったことは広く世間知られており、干柿逸話とも関連がある可能性がある。 三成関ヶ原の戦い数日後捕縛され大津城曝された。この時、福島正則馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様何事であるか」と大声叱咤した。三成毅然として武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思うと言い放った(『武功雑記』、寛文年間成立)。 関ヶ原の戦い直前三成増田長盛密談した三成は「五畿内浪人集めて兵力とし、家康決戦挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節待とうと言った。すると三成苦笑いし、「生前太閤殿下貴殿拙者100万石を与えと言われたが、我々は分不相応ですと断った思えばあの時100万石を受けていれば今になって兵力心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍『遺老物語』)。 以下の逸話明和7年1770年成立の『常山紀談』を出典とする。 石田家中で行われた密議での話。三成に対して家臣島左近は「豊臣家のために決起するのであれば即断すべきであり猶予不要でした。しかし好機逸してしまい、家康味方する者も多く当家存亡予測出来ません。ここは筋を曲げてでも今まで疎遠であった諸大名遺恨なきよう親交し、時を待つのが策ではないか」と進言した。これに対して三成は「一時成功よりも、事が起きた後いかに平穏にさせるのかを考えるべきである」と受け入れなかった。三成来客のため場を離れる三成家臣樫原右衛門左近向かって「あなたの言うことがもっともである。松永久秀明智光秀悪人であった決断力人並みではなかった」と言ったその後関ヶ原の戦いの前の事。家康島左近動静を探るべく同じ大和国出身柳生宗矩左近の許に送り込んだ二人の話が天下趨勢に及ぶと左近はその密議の事を思い出して今は松永明智のような決断力知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう」と語った家康会津征伐従軍しようとしていた大谷吉継三成から佐和山城招かれた。三成は「豊臣のために上杉景勝打倒家康の策を練っていた。上杉立った以上これを見殺しには出来ない」として挙兵決意語った。吉継は「ならば秀頼公に命を捧げよう。しかし大事にあたって気掛かり二つある。まず世の人三成無礼者であると陰口を叩く一方家康下々の者にまで礼をもって接するので人望がある。次に石田殿には智はあっても勇足りないと見える智勇二つ持ち合わせねば事は成し遂げられないだろう。毛利宇喜多一時味方であって頼りならない家康関東への帰路夜討ちをかけておけば勝利疑い無かったが、既に手遅れだ。悔いても益は無いので、このうえは秀頼公ために戦う以外道は無い」と三成諫めつつ挙兵同意した家康関ヶ原の戦い敗れて捕縛され三成面会した際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応える家康も「三成さすがに大将器量である。平宗盛などとは大い異なる」と嘆じた。また家康処刑前の三成小西行長安国寺恵瓊の3人が破れた衣服まである事を聞き、「将たるものに恥辱与え行為自分の恥である。」として小袖送り届けた三成小袖見て誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った

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