逸見舎人と妻との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:34 UTC 版)
兄としばしば争いを起こしたため、天保7年(1836年)22歳の正月元旦に家を出る。両国米沢町に数年仮寓し、25歳頃に知り合った逸見(へんみ)舎人との出会いで転機が訪れる。大山石尊の御祷師で易者でもあった逸見舎人は、一信に大望を抱く異相があるとして気に入り、その娘やすと結婚させた。婿入りした一信は、この妻の姓「逸見」を名乗る。ところが今度は義母との折り合いが悪く、一信は再び家を出てしまう。父の許しもあって後を追ってついてきた妻と共に江戸各地を転々としながら、看板や提灯の絵を描いて糊口をしのいだ。しかし、家は貧しく妻やすは、浅草八幡境内の不動尊に3年願掛けしたという。また浅草に住んでいた時は、近くの柴田是真とも交流したという。安政2年(1855年)3月に起こった大火で、夫妻は全財産を失ってしまい、増上寺の子院・源興院に身を寄せる。ここで後に五百羅漢図の願主となる法誉了瑩上人と出会い、嘉永3年(1850年)源興院10世となった了瑩のために、源興院仏堂に「十六羅漢図」を描いた。
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