逸話と伝説
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篁は昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説が『江談抄』、『今昔物語集』、『元亨釈書』といった平安時代末期から鎌倉時代にかけての説話集に紹介され、これらを典拠にして後世の『本朝列仙伝』(田中玄順・編、1867年・刊)など多くの書籍で冥官小野篁が紹介されている。『江談抄』三の三十九において、藤原高藤が急死した際、閻魔庁の篁によって冥土からの生還を果たしたことが記されている。 『今昔物語集』巻第20第45話「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語(小野篁依情助西三条大臣語)」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見える。 『元亨釈書』 では、巻の九にある矢田寺(金剛山寺)の滿米(満米)上人の項において、篁が閻魔大王に菩薩戒を授ける人物として上人を紹介する。この物語は「矢田地蔵縁起」として描かれ、京都矢田寺(重要文化財指定、京都国立博物館寄託)、奈良矢田寺(非公開)、奈良国立博物館、根津美術館などに残されている。この伝説に基づき、京都矢田寺の梵鐘を「送り鐘」と称して六道珍皇寺の「迎え鐘」と対の存在としている。 冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道、出口、明治期に廃寺)にあったとされる。また近年六道珍皇寺旧境内から井戸が発見され、六道珍皇寺ではこの井戸を「黄泉がえりの井戸」と呼称している。六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。 『江談抄』の藤原高藤蘇生譚(前項目参照)の前段(三の三十八)において、篁は悪ふざけで高藤を百鬼夜行と遭遇させた伝説が語られている。 京都市北区にある篁のものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓があるが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものである(源氏供養参照)。 嵯峨天皇が「無悪善」という落書きを読めと篁に命じたが、篁はなかなか応じようとはしない。さらに天皇が強要したところ、篁は「悪さが(嵯峨)無くば、善けん」(「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意)と読んだ。天皇は、これが読めたのは篁自身が書いたからに違いないと非難し、篁は「どんな文章でも読めます」と弁明したため、では「子子子子子子子子子子子子」を読めと言ったところ、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解き事なきを得た(『宇治拾遺物語』巻三「小野篁広才事」)。『江談抄』三の四十二にも類話が見えるが、こちらでは「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」を「月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨も降らなん恋つつも寝ん」と読み解く。 『白氏文集』が御所に秘蔵されていた頃、嵯峨天皇が戯れに白居易の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという(『江談抄』四の五)。 白居易は、篁が遣唐使に任ぜられた(遣唐使#回数参照)と聞き、彼に会うのを楽しみにしていたという(『江談抄』四の十八)。 陸奥守在任中の承和9年(842年)に竹駒神社を創建している。また、六道珍皇寺を創建したとの説もある。 伊具郡川張村(丸森町川張)の地名は篁がイノシシを退治したという逸話にちなむ。 晩年の仁寿2年(852年)には一本の桜の大木から京都六地蔵を彫り上げて大善寺に安置したととされる。 『野馬台詩(歌行詩)』の注釈によれば、竹から生まれたのはかぐや姫だけでなく、小野篁も竹から生まれたという。
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逸話と伝説
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ジッポー社は、自社製ライターの強靱性などを説明するために、しばしば広告を作成した。これらのうちいくつかは都市伝説化しているが、次の逸話は、ジッポー社がライターの宣伝に実際に使ったもので、事実と考えられている。 第二次世界大戦中、ベルギー戦線で従軍中のあるアメリカ軍兵士がドイツ軍に狙撃されたが、銃弾は胸ポケットに入れていたポケット版の聖書を貫通した上でその下にあったジッポーライターにヒット、弾丸はジッポーの所で停弾、兵士は一命をとりとめた。ジッポーはへこんでしまったが、オイルを入れれば今でも火がつく。 第二次世界大戦中の1945年3月、アメリカ海軍航空母艦カボットが、乗組員に目的地を告げずに航海を続けていた。レーダー担当の若い士官が、同乗していた著名な従軍記者のアーニー・パイルに「艦の目的地を知らないか」と尋ねた。パイルは問いに答えずライターを借りると、そのジッポーの底に何か文字を刻み、「ポケットにしまえ。命令があるまで見てはいけない」とライターを返しながら告げた。30分後、命令に注意するようにという合図があったときにこの士官が自分のライターの底を見ると、“TOKYO”という文字が刻まれており、アメリカ軍による、日本本土への最初の攻撃を予告していた。このジッポーはパイル没後も、彼にライターを貸したレーダー担当士官によって愛用され続け、1961年にジッポー社の広告で「どんなに古くても、無償で修理します」というメッセージと共に紹介された。なおこのジッポーは1992年にワールドフォトプレスの今井今朝春が対面した時も、ちゃんと点火できたという。なお、元の所有者はすでに亡くなっており、彼の夫人が所有していた。 アメリカ陸軍の戦闘機パイロットは、夜間に敵機の攻撃で電気系統が破壊され照明が失われた機体の中で、ジッポーライターを灯し、計器盤を読み取った。この機転により、同機は無事にアメリカ軍基地に帰還した。 第二次世界大戦当時は、ジッポー社にとっては軍という大きな市場を得たのと同時に、国内の民間にはライターを卸せず市場から忘れ去られる危機を蒙っていた。この中で同社は、「4個10セントの専用フリントと専用オイルで国内ユーザーのジッポーライターを長持ちさせてください」と雑誌広告などで呼びかけていた。
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