類話
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「バイオリンはどうして出来たか」の記事における「類話」の解説
よく似た内容なのがポーランドの作家イェジィ・フィツォフスキによる再話「魔法の箱 Zaczarowana skrzynka」である(『太陽の木の枝』所収、1961年)。このポーランド版では、マトゥヤ(Matuja)という名のブナの木の精霊が、同じくくりぬいたカボチャにミルクを注いで飲めと勧め、無事に男の子が誕生し、「幸運」を意味する「バフタロー(Bachtalo)」と名付けられる。 これは楽器の発祥を伝える由来譚は、他の地域や文化にもみられ、他例にハンガリーの「ヴァイオリン」のおとぎ話やモンゴルの「モリンホール」の由来譚が挙げられるが、いずれもトランシルヴァニアのヴァイオリン起源との共通性は乏しい。ギリシア神話では、パーンに追われたシューリンクス(英語版)が葦、ついで楽器の葦笛(パンフルート)となった変身譚が有名である。
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類話
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福島県田村地方にはオンボノヤスと同じく霧を使う妖怪がほかにもおり、鬼穴に住んでいたという「大多鬼丸」は、妖術によって霧や雲を自由に操ったという。 福島以外にも、これらのような霧にまつわる怪異は伝承されており、埼玉県の川越城で、かつて井戸の中から霧を生じさせて外敵の攻撃を防いだといわれる「霧吹きの井戸」や、広島県の船幽霊が海面に霧を満たして船の進行を止めたなどの事例がある。
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類話
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アイヌ民話に、同様に人を食べる一つ目の怪物の話がある。 ある2人兄弟が夜、海辺の小屋に泊まっていたところ、一つ目の大きな怪物が小屋を襲い、兄のほうが食い殺して去って行った。弟は翌日にこのことを人々に知らせ、皆で武器を手にして夜を待った。夜になって怪物が再び現れたので、皆で攻め立てて退治した。その正体は巨大なカワウソだったという。
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類話
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「かつて殺した相手が、自分の子供に生まれ変わり、罪を暴く言葉を発する」というモチーフには、他にさまざまな類話がある。川合勇太郎が1930年に「六部ば殺した話」を所収して以降、類話の報告は、水沢謙一(1956年)、野村純一(1967年)、稲田浩二・福田晃(68年)、京都府立総合資料館(1972年)、佐藤義則(74年)、佐々木徳夫(75年)、水沢謙一(76年)によって重ねられている(上田和男 他多数編 『民俗研究ハンドブック』 吉川弘文館 1978年 pp.217 - 218)。
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類話
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「竜王と賢女ワシリーサ」の記事における「類話」の解説
この民話には他にも『海の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』(224番)、『湖の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』(222番) といった類話がある。 『海の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』においては、物語の中に登場する王は商人に、王子は商人の息子のイワンに、2つの小箱は黄金の宝石箱に、竜王は異教の王ロブに、12羽の鷺は3羽の鳩に、キスによってワシリーサを忘れる相手は妹から名付けの母になっている。与えられる難行も2つから3つに増えている。3人の勇者にあたる人物はみられない。 『湖の帝王とワシリーサ・プレムードラヤ』においては、鷲の飼育のエピソードはなく、旅先で王が湖の水で喉を潤そうとしたところ、湖の帝王から「王の家にある物で王の知らない物を貰う」という条件を示される。成長したイワン王子は、湖の帝王の元へ向かう途中で、老婆から教えられたとおりに13羽の鳩が変身した娘の1人、ワシリーサの衣類を隠し、彼女から黄金の指輪を受け取る。白蝋でできた教会を1晩で建てるなどの3つの難行はあるが、妻の選択に際しての試しはない。やがて郷愁に耐えかねて帰国した王子はワシリーサを忘れ、他国の王女との結婚を考えるが、別れの際にワシリーサが言ったとおり、宮殿の窓に2羽の鳩が体をぶつけるのを見て本当の妻を思い出す。
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類話
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青森県五所川原市では、水死や首吊りのあった場所には、雨の夜に「もる火」または「もり火」という怪火が現れるといわれ、地元ではもっとも恐ろしい化け物といわれている。これに対して悪口を言うと、その人について回る。打てば細かく砕けるが、やはり人について回る。念仏を唱えると去るといい、灯火のある部屋には入ってこないともいう。 宮城県牡鹿郡女川町や鹿児島県でいう「亡霊火(もうれいび)」は船幽霊に類するもので、遭難者の霊が帆船などの姿となり、夜の海を行く漁船の前に急に現れ、漁船がそれを避けようとしてもまた前に現れ、やむを得ず船を止めると、それは船の形を失って燐光となり、遠くへ走り去るという。
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類話
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民俗学者・藤沢衛彦の著書『妖怪画談全集 日本篇 上』には「怨みに籠る小袖の怪」と題して以下のような話があり、石燕の妖怪画との関連性は不明だが、文献によってはこれが「小袖の手」にまつわる怪異譚として述べられている。 慶長年間、京都に住む松屋七左衛門という男が、娘のために古着屋から着物を買った。間もなく、娘は病気に侵されてしまった。また七左衛門も家で女の幽霊を目にし、その霊は娘に買ったものと同じ着物を着ていた。七左衛門はその着物を気味悪く思い、売りに出すことにして衣桁に掛けておいた。すると袖口から白い手が伸びてきた。着物をよく調べたところ、布が袈裟懸けに切られ、うまく縫い合わせてごました跡があった。これは武家に仕えていて手討ちに遭った女性の着物だろうと思い、菩提寺に着物を納めて弔ったところ、娘の病気も回復に至ったという。 また、1657年(明暦3年)に江戸で発生した大火災・明暦の大火は、別名を振袖火事といって、恋煩いの末に亡くなった娘の振袖を、供養のために寺で焼いたところ、火のついた振袖が風で煽られて火災の原因になったという伝承があるが、これも同様に着物に込められた怨念の仕業によるものとする説がある。 また、近藤瑞木は江戸時代の怪談集にいくつか類話を指摘しているが、最も典拠に近いのは『諸州奇事談』巻之二「執着の小袖」であるとしている。
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類話
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鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』に「倩兮女(けらけらおんな)」という妖怪があるが、笑い声が恐怖を与えるという設定で描かれた妖怪であり、笑い男や笑い女と同種のものと解釈されている。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/03 20:24 UTC 版)
本項と同様に、毛を神体とする事例は他にも各地でみられる。 埼玉県草加市新里町の毛長神社では、6メートルもの長さの髪を持つ女性が人々の幸せを祈りつつ入水したといい、その髪が毛長神社の神体になったと伝えられる。この毛は箱に納められて神体として祀られていたものの、あるときに不浄の物と見なされて、大水のときに流されてしまったといわれる。別説ではこの毛長神社の毛は素戔嗚尊の妹姫の髪とも、新里のある女性が男性との悲恋から毛長川に身を投げ、後に川から長い髪が見つかったものともいう。 また群馬県多野郡上野村大字新羽では、神流川を流れていた栗野権現または橋姫の陰毛が神体とされている。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/22 08:28 UTC 版)
ホラガイが龍に化身して山から抜け出すという話は、ほかの古典の文献や民間伝承にもある。『東京近郊名所図会』によると、明治5年8月25日午後に激しい雷雨があり、道灌山(現・荒川区西日暮里)の北川の崖が崩壊して穴跡ができ、山に千年住んだ法螺が抜けて昇天した跡だと評判になったという。この抜けた穴は明治末期まで残っており、付近にはほかにも抜け穴が多く、地面が急に陥没することもあったという。また日暮里の花見寺でも明治初期の夏、轟音とともに真っ黒いホラガイが土を蹴散らして空へ飛び去ったという伝承がある。しかしこの日暮里近辺の怪異の正体は、彰義隊が残した火薬、弾丸、地雷などの自然発火や、彼らが隠れ家として掘ってあった大穴の陥没といった現象がホラガイによるものと見なされたとの説もある。 松浦静山の『甲子夜話』によれば、ホラガイは蛟の一種であり、山腹の土中に住んでいるものとの記述がある、山が震えて激しい雷雨が起きたときには山から飛び出すことがあり、これを法螺抜けといい、正体を見た者はいないが、地中から蛟が現れるものとされている。 牟婁郡(現・和歌山県)の民俗誌『牟婁口碑集』によれば、かつて和歌山県西牟婁郡西富田村(現・白浜町)では村の大池から法螺が現れたとある。大水が発生した年、濁流の中に大きな黒い物体が流れて行くのを目撃した者がおり、その跡には池に洞窟ができていた。土地の口承ではホラガイは海、川、山でそれぞれ千年、計3千年の歳月を経た末、神通力を持つ大蛇と化すといい、そうしたホラガイが抜け出たものだといわれた。 江戸時代には山岳を観察しながら暮していた山伏たちが、こうした山中の法螺抜けの伝説を広め、崖などに自然にできている穴を「洞(ほら)」と呼ぶのも法螺(ほら)が抜けた穴という意味であり、そこから抜けた法螺が龍となって昇天するなどと話して回ったが、その途方もない話を当時の人々は嘲笑し、このことから嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう。 このような俗信はもとは中国から伝わったものらしく、17世紀初頭の中国の文献『五雑組』には、福建省で暴風のために洪水が起きた際、人々は蛟が出現したのだろうと語ったという記述がある。
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類話
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広島にはこの類話が複数ある。根岸鎮衛の随筆『耳嚢』によれば、芸州(現・広島県西部)の比熊山に「三本五郎左衛門(さんぼんごろうざえもん)」という妖怪がいたとある。それによれば、稲生武太夫が引馬山で一晩を過ごして帰宅した後、家に様々な妖怪が現れるようになったが、武太夫は決して動じなかった。16日後、彼のもとに五郎左衛門が現れて彼の豪胆さを称え、その後は怪異もなくなったという。 また同じく『耳嚢』に、以下のような類話がある。文化5年。五太夫という者が石川悪四郎という妖怪を見物するために真定山へ登り、山中で夜を過ごした後に帰宅すると、家に頻繁に妖怪が現れるようになった。しかし五太夫は決して怯まなかった。数日後、悪四郎は僧侶に姿を変えて五太夫のもとを訪れ、彼の勇敢さを称え、山から去ると告げた。五太夫が話合いの証拠を求めたところ、悪四郎は3尺(約90cm)ほどの用途不明のねじ棒を残して姿を消したという。 石川悪四郎の話は五太夫の体験談として『耳嚢』に記述されているが、内容は『稲生物怪録』とほぼ同じのため、鎮衛が書き誤ったか、もしくは五太夫が『稲生物怪録』を脚色して鎮衛に語ったとの説もある。
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類話
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砂かけ婆の正体をタヌキとする説と同様、小動物が人間に砂をかける怪異は、日本全国に例が見られる。 福岡県の民俗誌『筑紫野民譚集』によれば、福岡県久留米市でエノキの木の上からタヌキが通行人目がけて砂を撒き、さらにその人の前に垣を作り出して行く手を塞いだと記述がある。愛知県でもタヌキが人に砂をかけた話がある。 青森県津軽地方、新潟県佐渡郡でも砂撒き狸(すなまきだぬき)といって、同様にタヌキが夜道で砂をかけてくるという。千葉県の利根川流域でいう砂撒き狸は、体に砂をつけたタヌキが木に登り、人が通りかかると体を震わせて砂を撒く、または猫ほどの大きさの小動物が木に登り、通行人に砂を振りまくなどといわれた。新潟の佐渡島の妙照寺に住む老いた砂撒き狸は信心深く、佐渡に配流された順徳天皇のもとを子の忠子内親王が訪れる際、荒れた道に砂を撒いてならし清めたといわれ、砂撒きを見た人は忠子内親王が父に逢いに来た日だと知ったという。 徳島県板野郡撫養町小桑島字前組では砂ふらし(すなふらし)といい、タヌキが人に砂をかけることで方向感覚を狂わせて道を迷わせ、水辺に落としてしまうという。 新潟の民俗誌『越後三条南郷談』によれば、新潟県大面村(現・三条市)字矢田の翁坂では砂撒き鼬(すなまきいたち)といって、イタチが後ろ足で砂をかけ、また人の蝋燭の火を奪うこともあるといい、火取り魔の正体であるともいう。 奈良県天理市別所の伝説では、夜遅くなると、萩村の藪から砂かけ坊主が出たとされる。
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類話
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一本だたらと同様に足が1本しかない妖怪の伝承は日本各地にあり、一本足(いっぽんあし)と総称されている。中でも、雪の降った翌日、地面の雪の上にある足跡状の窪みを、一本足の妖怪の足跡とするものが多い。 静岡県磐田郡(現・浜松市天竜区)川上では、「誤って片足を切断して死んだ木こりの怨みが一本足という妖怪になり、降雪の翌日、山中に片足のみの足跡が残っている」という。 愛知県北設楽郡振草村粟代(現・設楽町)では、「大雪の晩、山小屋の周りで、ドスンドスンと音がして、翌日には約2尺(約60センチメートル)の片足のみの足跡が残っている」という。 富山県上新川郡(現・富山市)、岐阜県北部の飛騨地方、岡山県都窪郡に伝わる妖怪の「雪入道」(ゆきにゅうどう)も、一つ目と一本足の大入道で、「雪の降った翌朝の雪上に足跡を残す」というが、一本だたらと特徴が共通することから、文献によっては同一の妖怪として混同されている。 和歌山県伊都郡三好村(現・かつらぎ町)では、降雪の翌朝に木の下に円形の窪みがあるものを、前の晩に小児のような妖怪「雪坊(ゆきんぼ)」が一本足で飛び歩いたためという。 愛媛県北宇和郡吉田町(現・松野町)では、雪の上に一本足の足跡を残すものを「雪婆(ゆきんば)」という。 また、前述のように足跡が残るだけではなく、一本足の怪物そのものが登場する話もあり、『遠野物語拾遺』には、宮城県の貞任山で一つ目一本足の怪物が、狩人に退治されたとある。 奈良県川上村柏木では、前述の猪笹王を一本足と呼び、その前身はイノシシではなく老いたネコとされている。 吉野郡中龍門村(現・吉野町)では節分の日、トゲのある小枝に焼いたイワシの頭(柊鰯)を刺して玄関に掲げる風習があるが、これは一本足を防ぐためといわれる。 前述の「一本だたら#伝承」の「伯母子岳の一本足」の別のバリエーション(吉野郡の伝説)では、美女に化けた一本足が現れ、災いを起こしていたとされ、高野山西の天野の猟師が出会ってしまったため、鉄砲で何度も発砲したが、そのたびに銃弾を手で受けては投げ捨てられ、迫ってきた。猟師は天野の神様=丹生都比売神社に、どうか1週間だけ命を借してくださいと祈ると、神様は2つ弾を撃てと教え、再び伯母子岳に向かうと、弾を撃ち続け、最後に2つ撃った。それに気づかなかった一本足に弾は命中した。女は命乞いし、猟師は人の命を取らないことを約束させるも、果ての二十日に通る人だけは命をとらせてほしいと頼まれ、1日くらいよいだろうと許してしまった。そのため、12月20日には入山するなと伝えられる(仲川明 『子供のための大和の伝説』、奈良新聞社、12刷1978年(初版70年)、234-236頁。)。 これらのような一本足の妖怪は、山の神や道祖神の神体を一本足とする伝承に関連すると考えられている。また、中国の一本足の妖怪・山魈(さんしょう)に由来するとの説もある。
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類話
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民間伝承における見越し入道に類する妖怪は、次第高(しだいだか)、高入道(たかにゅうどう)、高坊主(たかぼうず)、伸上り(のびあがり)、乗越入道(のりこしにゅうどう)、見上入道(みあげにゅうどう)、入道坊主(にゅうどうぼうず)、ヤンボシなど、全国に伝わっている。 長野県南佐久郡南牧村海ノ口、新潟県北蒲原郡赤谷村(現・新発田市)、静岡県榛原郡上川根村(現・本川根町)、周智郡三倉村(現・森町)などでは単に見越しの名で伝承されている。上川根村ではその昔、2人の若者が夜空に幟のようなものが空を登って行くのを見つけ、見越しだといって驚いたという話がある。 また静岡県庵原郡両河内村(現・静岡市)ではお見越しともいって、道端にいる人に小坊主の姿で話しかけ、話している途中に次第に背が高くなり、その様子を見続けていると気絶してしまうが、「見越したぞ」と言うと消えるという。道端に優しい人の姿で現れ、通りかかった人が話しかけると、話の内容によっては大きくなってみせるともいう。 熊本県天草郡一町田村(現・天草市)では、見越し入道と発音は同じだが漢字表記の異なる御輿入道として伝承されている。下田の釜という地の一本道に現れるという身長5丈(約15メートル)の妖怪で、出遭った人を今にも嘗めるかのように舌なめずりをするという。ある者がこれに出遭い、一心に神を念じたところ、入道は恐れをなし、御輿のようなものに乗り、布を長く引いて山のほうへと飛び去ったという。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 13:37 UTC 版)
文化時代の随筆『一宵話』に、ぬっぺふほふに似たものが現れた話がある。 1609年(慶長14年)、駿府城の中庭に、肉塊のような者が現れた。形は小児のようで、手はあるが指はなく、肉人とでもいうべきものだった。警戒の厳しい城内に入り込む者は妖怪の類であろうと思われたが、捕まえようにもすばやく動いて捕まえられない。当時の駿府城に住んでいた徳川家康が、その者を外へ追い出すよう命じたため、家来たちは捕獲をあきらめて城から山のほうへと追い出した。 後にこの話を聞いた薬学に詳しい者は、それは中国の古書にある「封(ほう)」というもので、白沢図にも記載があり、この肉を食べれば多力を得る仙薬になったと口惜しがったという。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 10:22 UTC 版)
山田野理夫の著書『東北怪談の旅』には「障子の目」と題し、江戸の商人が津軽へ材木を買いに行き、宿代がもったいないと言って空き家に泊まったところ、障子に無数の目が現れたが、商人は恐れるどころかこれらの目を集めて持ち帰り、眼科医に売り飛ばしたという話がある。 また、ある南部藩士が布団に入って寝ていたところ、足元に目玉が転がっており、その目からもう一つの目が生まれ、その繰り返しで周りが目玉でいっぱいになり、あくる朝には藩士自身の目がなくなっていたという話もあり、水木の書籍においては目目連の一種とされている。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 22:45 UTC 版)
油にまつわる怪異は各地に伝承がある。江戸時代の怪談本『古今百物語評判』によれば、比叡山の全盛期に延暦寺根元中堂の油料を得て栄えていた者が、後に没落し、失意のうちに他界して以来、その家から根元中堂へ怪火が飛んでいくようになり「油盗人(あぶらぬすっと)」と呼ばれたという。噂を聞いた者がこれを仕留めようとしたところ、怒りの形相の坊主の生首が火炎を吹いていたという(画像参照)。 摂津国昆陽(現・兵庫県伊丹市)でも同様に、中山寺から油を盗んだ者の魂とされる怪火を「油返し(あぶらかえし)」といい、初夏の夜や冬の夜、昆陽池のそばにある墓から現れ、池や堤を通り、天神川から中山へ登って行くという。狐の嫁入りという説や、墓にいるオオカミが灯す火との説もある。『民間伝承』にはこの怪火の特徴について「この火は、パッ〱〱〱とつくと、オチャ〱〱〱と聲がしトボ〱〱〱とセングリ〱と後へかへらずにせいてとぼる」とある。この文の意味は専門家でも意味不明とされるが、火の中からこのような話し声が聞こえるとの解釈もある。 また新潟県南蒲原郡大面村(現・三条市)では、滝沢家という旧家で、家の者が灯油を粗末に扱うと「油なせ(あぶらなせ)」という妖怪が「油なせ」(「油を返せ」との意味)と言いながら現れたといい、村人たちは病死した滝沢家の次男が化けて出たと噂していたという。この油なせは怪火ではないが、民俗学者・柳田國男はこれを油坊に関連するものとしている。
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類話
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島根県邇摩郡温泉津町(現・大田市)には「影鰐(かげわに)」という怪魚が伝わる。出雲地方の海に棲む怪魚で、海面に映った船乗りの影を飲み込み、影を奪われた者は必ず死んでしまうという。 影を飲まれそうになった船夫が逆に影鰐を銃で撃ち殺したところ、陸に上がって浜を歩いているとき、影鰐の骨が足の裏に刺さって死んでしまったという。
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類話
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「民話と文学の会」の1986年の会報に、当時から約20年前の怪談として「赤いはんてん」というものが報告されている。ある中学校で、女生徒がトイレで用を足していると、「赤いはんてん着せましょか」と声が聞こえてきた。怖くなった女生徒が後で学校の教師に相談すると、教師も同様の体験をしたと発覚。学校側の依頼により警察の捜査が入り、婦人警官が問題のトイレに入った。件の声に対して婦警が「着せてみなよ!」とすごむと、次の瞬間には婦警の悲鳴が響いた。他の警官たちが駆けつけると、婦警は血まみれの姿で倒れており、壁に飛び散った血痕が斑点(はんてん)模様になっていた……という話である。この類話として、女子大のトイレで同様の怪異があり、トイレに入った婦警が同様に凄みを利かせると、トイレからナイフを持った手が飛び出して婦警の胸を突き刺した、という話もある松谷 1987, pp. 93–94。 稲川淳二の怪談にも同様に「赤い半纏」というものがあり、舞台は終戦直後の学校とされ、怪異の起きたトイレでは「あかーい半纏着せましょか♪」と歌が聞こえていたという。稲川が後に明かした裏話によれば、この話の元は、稲川がパーソナリティを務めたラジオ番組の怪談特集に際し、年配の女性リスナーから寄せられた自らの体験談だという。稲川が後に独自に調査してみると、この学校は、戦時中は神風特攻隊隊員の寮として使われていたらしい。終戦後、ここへ特攻隊員の母親が訪れた。トイレへ行ってみると、そこには、出撃直前に隊員たちが記念に書き残した自分の名前がたくさんあった。その中に自分の息子の名を見つけた母親は、その場で自ら命を絶ったという。その母親の怨念が、「赤い半纏」の声の正体ではないかというのが稲川の見解である。 ラジオに寄せられた体験談はハガキで寄せられたものであるため、「あかーい半纏着せましょか♪」のメロディは稲川のオリジナルである。しかし稲川による歌声があまりに強烈なインパクトを持っていたためか、後にこの話が広まってテレビでも語られた際、歌の部分は稲川の考えたメロディそのままであったため、たまたまその番組を観ていた稲川を驚かせた。
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類話
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熊本ではこの油すましと同様、妖怪の噂話をするとその妖怪が現れるといった怪異譚が他にも伝えられている。 油すましと同じく『天草島民俗誌』によれば、天草郡一町田村益田(現・天草市)で、「うそ峠」という場所を通りかかった2人連れが「昔ここに、血のついた人間の手が落ちてきたそうだ」と話すと「今もー」と声がして、その通りの手が坂から転がり落ち、2人が逃げ切った後に「ここでは生首が落ちてきたそうだ」と話すと、また「今ああ……も」と声がして生首が転がり落ちてきたという。 また下益城郡豊野村(現・宇城市)下郷小畑では「今にも坂」という場所で大入道が現れるというが、その話をしながら坂を通ると、「今にも」と声がして大入道が現れたという。
※この「類話」の解説は、「油すまし」の解説の一部です。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:07 UTC 版)
「豆つぶころころ」では、豆を追いかけたおじいさんがねずみ浄土のあとに、鬼が博打をしている黒い障子の家に行く。鬼の家でおじいさんはにわとりの鳴き真似をする。 また、「ねずみ浄土」と「おむすびころりん」は別々の昔話として区分している書籍もある。「地蔵浄土」ではおむすびでなく団子が転がる。
※この「類話」の解説は、「おむすびころりん」の解説の一部です。
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類話
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江戸時代の怪談や随筆などの古書には、巨大な女の生首が現れたという事例が多数あり、ほとんどは女性で、既婚女性の証としてお歯黒を付けていることが特徴である。それらの正体は、人間の怨霊や執念が妖怪と化したもの、あるいはキツネやタヌキが化けたものといわれている。 山口県岩国の怪談集『岩邑怪談録』には「古城の化物の事」と題し、ある女が御城山という山で一丈(約3メートル)の女の生首に遭い、にこにこと笑いかけられたとある。江戸時代の俳人・堀麦水による奇談集『三州奇談』では、金沢で雨上がりの夜に月が顔を出し始めた頃、雷と共に大きさ6~7尺(約1.8~2メートル)ほどの大首が現れたとあり、塀の上に大きな首が乗っていたこともあるという。また、ある者がこの大首に息を吐きかけられ、その場所が黄色く腫れて具合が悪くなり、医者に薬湯を処方してもらって治ったという話もある。 『四谷怪談』の祖形といわれる文化時代の読本『近世怪談霜夜星』では、策略に陥れられて命を絶った女性の怨霊が、鎌倉の地で巨大な大首となって現れた姿が描かれている。 江戸時代よりさかのぼって平安時代にも、「面女(つらおんな)」と呼ばれる巨大な女の首の妖怪が出現したとある。恋川春町の黄表紙『妖怪仕打評判記』によれば、平清盛が福原に遷都した夜にも、この面女が現れたという。
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類話
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江戸時代の怪談集『宿直草』にある「甲州の辻堂に化け物のある事」によれば、甲州(現・山梨県)で山中のお堂の天井裏に化け物が住み着き、お堂に泊まった旅人を捕えて食らっていたという。 山梨県北巨摩郡の民間伝承によれば、夜中に天井から「天吊るし(てんづるし)」という稚児のような姿のものが現れたという。特に人間に危害をあたえるわけではなく、ただ現れるだけである。書籍によっては天井下りの類話として扱われているものの、天吊るしは民間伝承、天井下りは前述のように創作物とされているため、類話とはいえないとの指摘もあるが、天吊るしもまた創作された妖怪とする説もある。
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類話
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播磨国(現・兵庫県明石市林崎の北方)、国道沿線に和坂(かにが坂)があり、『播磨名所巡覧図絵』によると、昔この坂に大きなカニの化け物が現れては人々を苦しめていたので、かにが坂と名づけられたと言う。弘法大師回国の際、この地に訪れた大師は民の苦しみを憐れんでこのカニを封じ込めたため、この坂を通る人たちは平穏な旅が続けられたという。 伊豆地方には滝壺に3.3メートル四方もの巨大なカニが住みついており、これが動くと地震が起こるなどともいわれた。
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類話
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落語「たちきり」の枕では、本作と同様に値打ちの誤解から起こる笑いをテーマにした小噺が演じられる。 昔の芸者小屋では、芸者がお座敷に入ると線香に火をつけ、それがたち切れるまでの時間と本数を計り、客が帰る際に一本、二本・・・と言って料金を請求していた。 その話を聞いた田舎者の女中は、線香の束を盗んで逃げてしまった。
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類話
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この「おばりよん」の昔話のように、「取っつくか引っつくか」「おぼさりたい、だかさりたい」「ばろんばろん」などの得体の知れない声に対し、それを恐れない豪胆な者や善人が「取っつくなら取っつけ、引っつくなら引っつけ」「おぼさりたからおぼされ、だかさりたからだかされ」「負(ば)れたかったら負れろ」などと返すことで富を得るという話は、新潟以外にも日本全国各地に見られ、昔話研究において「取っ付く引っ付く」という類型に分類されている。 本来は「取っつくなら取っつけ」と言った者に対して、何か化物が現れるのではなく、単に小判がたくさん飛んできて体に貼りつくという話であり、「おばりよん」のような妖怪や化物がその者に背負われて後に金に変るという話は、この類型から大きく変化したものと考えられている。富を得るエピソードが完全に欠如して、単に妖怪が人間に害をなす話や、そうした妖怪を狐狸の仕業として人間が退治するという話に変化していることも多く、特定の屋敷、峠、坂道など特定の場所にこうした妖怪が出没するとして、伝説と化している地方も少なからずある。 新潟の南蒲原郡では、おばりよんは「バロウギツネ」というキツネだといい、人間に化けて「バロウバロウ(負われよう、の意)」と鳴くものといわれ、これを退治したという昔話もある。大阪府南河内郡の伝承にある化け狸「負われ坂」を、おばりよんの一種とする説もある。徳島県の怪石「オッパショ石」も、おばりよんと同一視されていることもある。 また、備後国の比婆郡地方(現・広島県庄原市)では「おいがかり」といって、歩いている人の背後に覆いかかってくる妖怪が伝わっているが、これもおばりよんの一種と考えられている。
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類話
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釣瓶落としに類する妖怪はほぼ日本全国に類似例があるものの、ほとんどは名前のない怪異であり、「釣瓶下し」「釣瓶落とし」の名称が確認できるものは東海地方、近畿地方のみである上、釣瓶が落ちるのもそれらの地域のみであり、そのほかは木から火の玉が落ちてくる、焼けた鍋が落ちてくるなど、火に関連したものが多い。 たとえば山形県山辺町では鍋下ろし(なべおろし)といって、子供が日暮れまで遊んでいると、スギの木の上から真っ赤に焼けた鍋が降りてきて、子供をその鍋の中に入れてさらってしまうといわれる。島根県鹿足郡津和野町笹山の足谷には大元神(おおもとがみ)を祀る神木と祠があり、周辺の木を伐ると松明のような火の玉が落ちてきて大怪我をするという記述がある。静岡県賀茂郡中川村(現・松崎町)では鬱蒼とした木々の間に大岩があり、そこに毎晩のようにほうろく鍋が下がったという。青森県の妖怪のイジコも、木の梢から火が降りてくるものとの解釈もある。
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類話
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「ウィッティントンと猫」の記事における「類話」の解説
猫による出世を要素とする類話は、イギリス以外の国に古来から様々なものが存在することが19世紀以来指摘されている。この要素は後の民話学では「ウィッティントンの猫」モチーフ(N411.2)に分類されている。 イタリアの類例が2話指摘される。ひとつはロレンツォ・マガロッティ(英語版)(1732年没)が著したもので、アンサルド・デリ・オルマンニという16世紀の商人の2匹の猫がカナリアという島の鼠を退治して、大金の褒美を頂戴した話である。もうひとつは「雌猫の話」と題し、教区司祭アルロット(英語版) (アルロット・マイナルディ、1484年没)『名言と冗談』に収録される。これは、ジェノアの商人が、やはりネズミに悩まされる島の王に猫を数匹進呈し、大金の褒美を得る話だが、後日談があって、別の商人が船に積んだ高価な品々をこの王に進呈してみたが、大金よりもよほど価値があろうと猫を2匹下賜されたという。 似たような話は、13世紀のドイツ人の史書に掲載される。アルベルト・フォン・シュターデ(英語版)著『年代記』の記述で、ヴェネツィア建国まもない頃、富豪が交易に行き、貧者から預かった猫2匹を大金に換えて帰還したという逸話である。これを類話として紹介したトマス・カイトリー(英語版)は、かなり古い伝説とも考えられるが、イタリアで遅くとも13世紀に知られた説話としか年代については確定できないと考察している。 ペルシアの類話では、ケイシュ(キーシュ島)の伝説で、ある寡婦の息子(10世紀の人物とされる)が 猫によってインドで財産を築いたという話が『ワッサーフ史』(14世紀)に所収される。これがウィティントン伝説の類話であるとの指摘は、ジェームズ・ジャスティニアン・モーリア(英語版)(1818年)やウィリアム・ゴア・オウズリー(英語版)(1819年)による。 こうした類話の列挙は、トマス・カイトリー の Tales and Popular Fictions(1834年) が行っており、いまだにない多くの類話を集めたと自賛している。 「ウィッティントンと猫」は、グリム童話 「三人のしあわせもの」(Die drei Glückskinder KHM 70)の説話群として、 ボルテ(英語版) とポリーフカ(英語版)のグリム童話注釈書に掲載されている。同書には、他の類話も言語ごとに列挙されるが、これには「ウィッティントンと猫」のオランダ語版やドイツ語版も含まれている。 話型としては、 アールネ=トンプソン(AT)タイプ1651「ウィッティントンの猫」タイプに分類される。 南方熊楠は、最古の類話が仏典の「鼠金舗主」(Rat Money Broker)であると論じた(「猫一疋の力に憑って大富と成りし人の話」)が、これは鼠の死骸を猫の餌として売り(エンドウ豆と交換し)それを元手に商売に成功したという話である。
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類話
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日本でも芭蕉の怪異は江戸時代の文献に多く見られる。中でも佐藤成裕による随筆『中陵漫録』巻3に「芭蕉の怪」と題し、以下のように述べられている。 琉球では蕉園といって、芭蕉から繊維をとるために芭蕉が数里も渡って植えられている場所があるが、夜更けにそこ通ると必ず異形の者に遭うという。人がこれに遭っても驚くだけで直接的な害は受けないが、刀を手にしていればこの怪異を避けられるという。佐藤成裕の推測によれば、芭蕉は大きな葉を持つことから草木の中でも一際大いなる者なので、その精霊が人を脅すのだろうという。 また琉球では、女性は午後6時過ぎに芭蕉の茂る中を歩くことを戒められており、もしこの戒めを破って芭蕉のもとを歩くと、美しい男性または様々な怪物に遭い、それらを目にすると必ず妊娠させられてしまうという。身ごもった子供は10ヶ月後に産まれるが、それは牙を生やした鬼のような恐ろしい子供で、しかもその後にも毎年、同じような子供を産み続けてしまうという。この子供が生まれた際には熊笹を粉末にしたものを飲ませて殺さなくてはならず、そのために家々では常に熊笹を取り置いていたという。 『中陵漫録』の「芭蕉の怪」には琉球以外の芭蕉の怪異譚もある。信州(現・長野県)で僧侶が寺で夜通しで読書をしていたところ、どこからか美女が現れて僧を誘惑した。僧は怒って短刀で斬りつけると、女は血を流して逃げ去った。翌朝、僧が血痕を辿ったところ、その跡は庭まで続き、庭に植えた芭蕉が切り倒されていた。人々は、芭蕉が女に化けたのだろうと話したという。
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類話
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福井県坂井郡雄島村安島(現・坂井市)の海では、このトモカヅキに似た後ろ鉢巻姿の妖怪を海海女(うみあま)と呼び、潜水業を行なう海女に目撃されている。海女が海の底へ潜って行くと妖怪の方は海上へと上がって行き、逆に海女が海上へと上がって行くと今度は妖怪の方が潜って行くため、その姿をはっきりと捉えることはできない。海女が大勢で作業を行なっている際には現れることはなく、単独作業を行なっているときのみ現れるという。また、この妖怪を目にすると病気に見舞われてしまうともいわれている。
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類話
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夜泣き石のように、石が声を発したり人を化かしたという伝承は各地にある。岡山県苫田郡泉村箱(後の奥津町、現・鏡野町)の「杓子岩」(しゃくしいわ)は、夜に通行人に対して「味噌をくれ」と言って杓子を突き出したという。同県御津郡円城村(現・同県加賀郡吉備中央町)にあった「こそこそ岩」という巨岩は、夜に人が通りかかると「こそこそ」と音を立てたという。香川県琴南町(現・まんのう町)美合の山中の「オマンノ岩」は、近くを人が通りかかると、中から老婆が現れて「おまんの母でございます」と名乗ったという。長野県北安曇郡小谷村大所の「物岩(ものいわ)」は、かつて命を狙われている者が付近を通りかかったとき「殺されるぞ」と声を出し、命を救ったといわれる。 古来から日本人は石や岩を霊的なものとして崇拝しており、そうした霊的な存在は妖怪にとって格好の住処であったとされることが、こうした伝承の背景と考えられている。 古くは奈良時代から例が見られ、『続日本紀』宝亀元年(770年)2月23日条に、「西大寺東塔の心礎を壊し捨てたが、石の大きさは一丈四方余り、厚さ九尺で、東大寺の東の飯盛山にあった石であった。初め数千人で引き動かしたが、一日に数歩分しか進まず、時には唸り声がした。そこで人夫を増やして九日かかってやっと運んだ。その後、加工されたが、男女の巫(みこ)の中に石の祟りがあるかもしれないという者があった。そこで柴を積んで石を焼き、三十石余りの酒を注いで、細かく砕いて道路に捨てた。一か月後、天皇が病となった。占った結果、砕いた石の祟りと出たので、石を拾い、清らかな土地に置き、人馬がふまないようにした」と記述され、古代から石が声を発し、祟るものという認識があったことがわかる。また、記・紀神話においても、天地開闢して間もない頃は、「石草木ものいう」という表現がみられる。
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類話
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『神異経』によれば、西方にいる「𧳜」はロバほどの大きさだが猴に似ており、メスばかりでオスがいないので、人間男性を捕えて性交して子を孕むとあり(玃猿と同じ行動をするが性別が逆である)、玃猿に類するものと考えられている。 日本では、江戸時代に玃猿が日本国内にもいるものと信じられ、同時代の類書『和漢三才図会』に「玃(やまこ)」の名で説明されており、同項の中で日本の飛騨・美濃(現・岐阜県)の深山にいる妖怪「黒ん坊(くろんぼう)」の名を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べられている。黒ん坊とは黒く大きなサルのようなもので、長い毛を持ち、立って歩く。人語を解する上に人の心を読むので、人が黒ん坊を殺めようとしても、黒ん坊はすばやく逃げるので、決して捕えることはできないという。 また、日本の江戸後期の随筆『享和雑記』にも「黒ん坊」の名がある。それによれば、美濃国根尾(現・岐阜県本巣市)の泉除川に住む女のもとには、夜になると幻のような怪しい男が訪れ、しきりに契ろうとしていた。村人たちはその者を追い払おうと家を見張ったが、見張りのいる夜には現れず、見張りをやめると現れた。そこで女は鎌を隠し持っておき、例の男が現れるや鎌で斬りつけると、男は狼狽して逃げ去った。村人たちが血痕を辿ると、それは善兵衛という木こりの家のもとを通り、山まで続いていた。善兵衛のもとには以前から黒ん坊が仕事の手伝いに来ており、それ以降は黒ん坊が現れなくなったため、この事件は黒ん坊の仕業といわれた。 『享和雑記』の著者は、これを『本草綱目』にある玃猿に類するものとし、その特徴について『和漢三才図会』とほぼ同じことを述べているため、『享和雑記』は『和漢三才図会』を参考に書かれたものと見られている。しかし『和漢三才図会』では前述のように「玃の属だろうか」と書いてあるにすぎないため、黒ん坊と玃猿を同一のものとは言い切れないとの指摘もある。 日本の江戸時代の絵師・鳥山石燕による妖怪画集『今昔画図続百鬼』でも、玃猿の姿が「覚」として描かれており、本文中には黒ん坊のことが「飛騨美濃の深山に玃あり」と述べられている。
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類話
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その後どうなったかを語らず、「あなたの後ろにいるの」で締め、「余韻の恐怖」を演出するのが基本形であるが、派生として以下のようなパターンもある。 振り向いたら殺される。 少女が刃物で刺される。少女の生死、怪我の具合は様々。 マンションが舞台で、電話の度に自分の住む階に近付いてくる。 轢き逃げをしたタクシーの運転手に、被害女性から電話がかかるパターン。名前はメアリー、メリーなど様々で日本人の場合もある。 リカちゃん人形の怪奇譚と複合されたパターン。 上記の派生が複合されたものも存在する。 チェーンメールでも伝播され、「メールを送らなければあなたも死ぬ」とされた。「彼女は大阪府岸和田市に住んでいる」、としたものもあった。
※この「類話」の解説は、「メリーさんの電話」の解説の一部です。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 09:40 UTC 版)
骨に限らず、遺体の一部から死者のメッセージが伝えられる類話は世界中に見られる。 ドイツの民話に、貧しい兄弟ではなく、王さまの子供たち(姉と弟)が後継ぎを争って、弟が姉を殺して遺体を埋める話がある。 また、日本でも似た筋書きの類話が多く採集されている。 詳細は「歌い骸骨」を参照 アフリカにもよく似た話が伝わっているが、猟師が王様を連れてくる事になっている。また奴隷貿易を通じて新大陸に連行された黒人たちの間でも「血まみれ骸骨の話」のエピソードのひとつとして伝承されている。
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類話
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狐が僧に化けた話として京都の相国寺に伝わる「宗旦狐」の話や、 寛保時代の雑書『諸国里人談』巻五に記載の「伯蔵主」(沢蔵司、澤蔵司)の話がある。
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類話
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夜雀に似た妖怪として、奈良県や和歌山県に伝わる「送り雀」、高知県の高岡郡東津野村(現・津野町)、津野山、同郡窪川町(現・四万十町)、愛媛の南宇和郡城辺町(現・愛南町)に伝わる「袂雀(たもとすずめ)」があり、東津野村や城辺町では夜雀と同一視されている。送り雀については内部リンク先を参照。 津野山でいう袂雀は、スズメそっくりに「チ、チ、チ」と鳴き、通行人の前後についてくるが、2人以上で歩いていても、なぜかその中の1人にだけしか聞こえないことが多いという。やはり山犬やオオカミの出る前触れとされ、これが現れたときには「大シラガ、小シラガ、峠を通れども神の子でなけりゃあ通らんぞよ、あとへ榊を立てておくぞよ、アビラウンケンソワカ」と唱え、木の枝を3本立てると袂雀はついて来ず、オオカミや山犬が現れることもないという。 窪川町でいう袂雀は、姿は見えないが鈴を転がすように「チリチリ」という音が通行人の背後からついて来るもので、これが袂に飛び込むことは不吉とされ、これの現れる場所を通るときには日中通るか、複数人で通ることを心掛け、それが叶わないときには袂をしっかりと握って歩いたという。東津野村でも、袂雀に憑かれないよう、袂を握って歩いたという。 愛媛の城辺町では、袂雀の鳴き声に遮られて歩けなくなることがあるという。
※この「類話」の解説は、「夜雀」の解説の一部です。
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類話
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群馬県川田村では、女が「飯を食べる」・「連れ去られる」要素のまったく無い話型も採取されている。その昔話では、なまけ者な男が日頃から「うまい物が食べたい」と言っていたところ、不思議な女が現われて男を叱りつけ、菖蒲を飾る事を教えて去ってゆき、男は働き者となって裕福になる。
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類話
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『捜神後記』所収の話。会稽の剡県に住む袁と根という男らが二人の仙女と同棲するようになるが、あるとき留守を機に帰郷を図って露見する。強いては止められず、腕嚢を渡され、開けることを禁じられる。根の家族が詮索して五重の嚢を開いてしまうと、その後、根は蒸発してしまった。それは蝉脱した(仙人となった)といわれた。 『水経注』に、晋代の王質という男が山の洞窟で4人の童子が琴を弾いて歌っているのをしばらく聴いた後、家に戻るといつの間にか数十年の時がたっていたという話がある。 唐代の薛瑩の撰による『竜女伝』。震澤の洞庭山の洞窟に茅公[月+它]という漁師が転げ落ちて竜宮にたどり着き、10日程過ごして帰参。東海竜王の第七女を主とするその竜宮に、今度は梁の武帝が羅子春兄弟を使者に遣わし、竜女より返礼として宝珠を得る。使者たちは龍に乗って瞬く間に返る。ただ、もてなしの料理は、包みを開くと石のように固くなってしまった。 中唐時代、李朝威(中国語版)によって書かれた伝奇小説「柳毅伝(中国語版)」は若い書生柳毅が竜王の娘を助け、洞庭湖の竜王のもとに赴き、後に娘をめとって竜王となる話である。柳毅は竜王となった後、長い年月がたっても若いままであるが、それは仙薬によるものであると説明されている。 アイルランドのオシーン(英語版)が、海の乙女ニアヴ(英語版)に誘われて「常若の国(ティル・ナ・ノーグ)」で何百年かを過ごすという物語がある。 『クルアーン』の「洞窟の章」には、アッラーフによって309年間洞窟で眠っていた男達の話がある。これは「エフェソスの7人の眠り男」と呼ばれる、ローマ帝国の迫害から逃れた人々が洞窟に閉じこめられたが、200年以上たった後、そのうちの一人の男が目覚め街に姿を現したという説話が元になっている。 12世紀にフランス語で書かれた『ガンガモールの短詩』では、タイトルヒーローが白い猪を追跡するうちに森の最深部に入り込み美しい宮殿に行きつく。彼はそこの姫君(猪に変身していた)と結ばれ3日間楽しく過ごす。彼は親族と再会するために出発するが、姫に「人間界との境である川を渡り終えたら、飲食を控える」ようにと警告される。彼が故郷に戻ると親族は300年前に亡くなったと知る。彼が野生のリンゴの木から実を3つ取って食べると、たちまち年老いて落馬し動けなくなる。彼は最後に姫君の侍女によって女人の国にと連れ去られる。
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類話
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東北地方には、灰をいじると妖怪が現れるという伝承が多い。岩手の二戸郡では、炉の灰を弄ぶ者は「アマネサク」という妖怪によって灰の中に引き入れられ、食べられてしまうといわれる。これは天邪鬼のこととする説もあり、福島県の一部でも炉から現れるものが「アマンジャク」と呼ばれている。また、柳田國男の著書『遠野物語拾遺』によれば、遠野地方でも炉の灰を掘ると「ボコ」という妖怪が現れるという。 青森県では、頭の上に口がある「あぐばんば」が囲炉裏の中におり、灰をいじると現れるという。秋田県の由利郡象潟町(現・にかほ市)などではこれを「灰ばばあ(はいばばあ)」ともいって、灰をいじる子供をさらって頭上の口で食べたり、年に一度、若い娘をさらったりするという。 灰坊主が実際に現れたという伝承が確認されていないこともあって、これら一連の妖怪は、囲炉裏の灰を悪戯してはいけないという教訓として生み出された妖怪と考えられている。
※この「類話」の解説は、「灰坊主」の解説の一部です。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 10:25 UTC 版)
子泣き爺と同様、赤ん坊のような産声をあげるという「ごぎゃ泣き(ごぎゃなき)」という妖怪が四国に伝わっている。高知県の高岡郡新居の浜や幡多郡坂の下では色白の赤ん坊で、夜道を歩く人の足にまとわりつくが、草履を脱ぐと離れるという。美馬郡木屋平村(現・美馬市)では、山中を徘徊する一本足の妖怪でこれが泣くと地震が起こるともいう。このごぎゃ泣きが一本足といわれることから、子泣き爺も一本足との説もある。柳田は『民間伝承』において、ごぎゃ泣きのことを「子泣き爺のことをいうらしい」と述べている。 山田野理夫の著書『東北怪談の旅』には、青森県の津軽平内の「児泣き婆(こなきばばあ)」という怪談がある。和井内行松という者が山中で迷い、1人の老人に出会い、老人の家に泊まることになった。途中の道で赤ん坊の泣き声が聞こえ、老人は赤ん坊を拾い上げた。さらに泣き声が聞こえたので、行松が拾おうとすると、顔は皺だらけの婆で、重くて手にできなかったが、老人はたやすく拾い上げた。やがて家に着き、老人はその赤ん坊を鍋に入れて煮始めた。しばらく後に鍋の蓋を開けると、中身はカボチャだった。翌日、昨日食べたものはカボチャかと行松が尋ねると、老人は児泣き婆だと答えたという。 ただし『東北怪談の旅』に収録されている伝承は著者の創作とみられるものが多いため、「児泣き婆」という妖怪も山田野理夫の創作である可能性が指摘されている。 茨城県にも似た伝説はあるが、怪力授与説話となっている。ある女性が戸村義国に対して少しの間、赤ん坊を持っていてほしいと渡すと、5貫、10貫、20貫と重くなっていったが、それに耐えきったため、女性はその力を認めて、消えていった。その夜、枕元に白髪の老婆が現れ、観音であると名乗り、怪力を授けたという。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:45 UTC 版)
野襖(のぶすま) 高知県幡多郡の妖怪。夜、道を歩いている人の行く手に襖(ふすま)のような壁ができ、上下左右どこまでも際限なく壁が続いており、野襖だと気づいた者は途端に気絶してしまう。これに立ちふさがれたときには、落ち着いて煙草でもふかしていると、自然に消えるという。 越前国石徹白村(現・岐阜県郡上市、福井県大野市)にも、名称はないものの、タヌキが道に襖をはって通行人の行く手をふさぐという同様の怪異が伝わっている。 壁塗り(カベヌリ) 1969年(昭和44年)には、 熊本県出身の民俗学者・丸山学によって「壁塗り」(かべぬり)という妖怪の伝承が報告されている。夜の道に黒い壁が現われて行く手をさえぎったという。丸山の報告内容には伝承地の記載が無い。 大分県臼杵市で妖怪による町の振興を行う臼杵ミワリークラブの調査によれば、壁塗りは同市内にも伝承が残っているものであり、観光用に絵葉書まで売られているほど有名なものであったとされる。 ヌリボウ(塗坊) 郷土史家・山口麻太郎の著書によると、壱岐国壱岐島(現・長崎県壱岐市)では、夜の山道で山側から突き出してくるといわれる。 柳田國男はこれを塗壁に似たものとして「妖怪名彙」に分類しているが、原典ではどのような形態のものかは詳しく述べられておらず、何を根拠として塗壁と同類とされているのかは不明。(路上に出現する怪異であること、名称が似ていることから塗壁の類話とされたとの説もある)。 昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、灰色の化け物であり、棒で叩くか、路傍の石などに腰をかけて一服しているとじきに消え去るなどとの解釈もある。 シマーブー 鹿児島県奄美群島の喜界島に伝わる妖怪。 夜道を歩いていると、目の前に枝を広げた木のようなものが急に現れ、道を塞ぐという。 道塞ぎ(みちふさぎ) 1957年(昭和32年)の夏の日の夕暮れに、新潟県と長野県の県境に位置する苗場山で、ある老人が遭遇したという怪異。釣りの帰り道に突如、見たこともない大滝が現れて行く手を阻まれ、後方には見たこともないマツの大樹と、見上げるような大岩が現れ、そのまま滝と岩が自分へ迫ってきて身動きできなくなってしまったという。老人はその場で一夜を過ごす羽目になったが、夜が明けると共にこの怪異は消え去ったという。 水木しげるの、ラバウルの体験 水木しげるは著書において、第二次世界大戦での従軍中に南方のラバウルで塗壁と同じものに遭遇した体験談を語っている。敵軍に襲われ、仲間とはぐれて深い森をひとりで逃げ惑っているうちに、コールタールを固めたようなものが前方に立ち塞がって行く手を阻まれ、右も左もその壁に囲まれて身動きできない。途方に暮れているうちに、疲労から数十分休んでいると、この壁は消えたという。 青木ヶ原樹海の見えない壁 霊能者・宗優子によると、テレビ番組の撮影で青木ヶ原樹海に入った際、制作スタッフたちの前に壁のようなものが立ちはだかったといい、樹海での自殺者たちがこれ以上進まぬようにと壁を作ったのではないかと語っている。 このほかにも、路上に出現して通行人の歩行を阻む妖怪に、衝立狸、蚊帳吊り狸がある。また、中国には鬼打牆などと称される同様の妖怪が存在する。詳細はそれぞれの内部リンク先を参照。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:20 UTC 版)
日本では当初ヘルメース神を水神と訳したためか、これを女神とすることが児童書などで一般的となっている。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/06 03:05 UTC 版)
本所七不思議の一つ・置行堀の正体がタヌキであり、そのタヌキが足洗邸に類似した怪異を起こしたという話がある。1765年(明和2年)、置行堀のタヌキが人に捕えられて懲らしめられ、瀕死の重傷を負っていた。偶然通りかかった小宮山左善という者が哀れに思い、彼らに金を与えてタヌキに逃がした。その夜、タヌキが女の姿に化けて左善の枕元に現れ、左善の下女が悪事を企んでいると忠告して姿を消した。しばらく後、左善は下女の恋人の浪人者に殺害されてしまった。数日後、左善の一人息子の膳一のもとにタヌキが現れ、真相を教えた。膳一は仇討ちを挑むが、敵は強く、逆に追いつめられてしまった。そこへ、タヌキが左善の姿に化けて助太刀し、膳一は仇を討つことができた。以来、家に凶事が起る際には前触れとして、天井から足が突き出すようになったという。 また、嘉永年間に六番町に住んでいた御手洗主計という旗本の家でも「蔵の大足」または「御手洗氏の足洗い」といって同様の怪異が起きたといわれる。雑物庫の戸がひとりでに開いて巨大な右足が現れ、これを洗ってやると今度は左足が現れる。両足とも洗い終えると足が引っ込んで戸が閉まるというものだった。大足を退治するべく刀で斬りつけても煙を斬るように効果がなく、祈祷で追い払おうものなら大足が暴れ回って祈祷者を踏みにじり、雑物庫の中を滅茶苦茶に暴れ回って中の品物を壊す有様だった。しかしこの大足は迷惑がられるどころか、以前に雑物庫に忍び込んだ泥棒を踏みつけて捕まえたことがあり、御手洗家ではこの足を家宝の守護者として「ご隠居」と呼び、家の大事なものはすべてその雑物庫にしまっていた。いつしか、女性が洗わないと足は引っ込まないようになったが、主計がこの仕事のために女を雇っても、すぐに嫌がって仕事を辞めてしまった。この怪異は明治時代前期まで言い伝えられ、やまと新聞の1887年(明治20年)4月29日付の記事でも報じられた。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 17:35 UTC 版)
スウェーデンでのバージョンは『Prince Hat under the Ground』と呼ばれている。 アールネ・トンプソンのタイプ・インデックスの「425A 失われた夫の捜索」の説話タイプに属する他の物語には、『ノロウェイの黒牛(英語版)』、『The King of Love』、『ノルウェーの茶色いクマ(英語版)』、『The Daughter of the Skies』、『ブタと結婚した王女(英語版)』、『ズキンガラスと妻(英語版)』、『Master Semolina』、『ローズマリーの小枝(英語版)』、『魔法をかけられたヘビ(英語版)』そして『白クマ王ヴァレモン(英語版)』が含まれる。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 07:23 UTC 版)
国書刊行会『絵本百物語 桃山人夜話』にて類話とされているものに、江戸時代の随筆集『三州奇談』に収められた大ネズミ「妖鼠(ようそ)」の奇談があり、同書では以下のように述べられている。 越中国(現・富山県)の五社村と道明村の間に、古墳が多くある墓地があり、そこに妖鼠が住み着いて周囲の動物たちを取り殺していた。1778年(安永7年)、五社村の伊兵衛という剛力の若者が夜更けにそこを通りかかったところ、路傍の塚が突然崩れて何者かが飛びついてきた。伊兵衛はその者をつかんで2,3間(約4,5メートル)投げ飛ばしたが、相手は宙返りして噛みついてきた。伊兵衛は蹴り飛ばしたが、なおも相手は飛びつき、体中に噛みついた。怒り心頭の伊兵衛がその者を捕えて力任せに締め上げると、ついに相手は血を吐いて死んだ。それは体長2尺(約60センチメートル)、尾が2尺ほどある大ネズミだったという。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 02:31 UTC 版)
アイヌでは「イワサラウス」といって、大きな体に毛が全くなく、6本の尾がある妖怪の伝承もあるが、これもアラサラウスと同じくクマの化け物だとする見方もある。
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類話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/24 05:17 UTC 版)
寛保時代の雑書『諸国里人談』には「森囃」(もりばやし)と題して以下のような話が述べられており、『絵本百物語』の「野宿火」は、この「森囃」を描いたものと考えられている。 享保時代初期。信濃坂(現在の岐阜県中津川市と長野県阿智村の境にある神坂峠)である年の夏、毎晩のようにどこからか囃子の音が聞こえ、笛や太鼓や数人の声が十町(約1キロメートル)四方に響くようになった。それらの音は近くの森の中から音がすることが次第にわかったが、その場所では篝火が焚かれているのみで、人の姿はなく、ただ囃子の音だけがしていた。翌朝にその場所を見ると、木の枝の燃えさし、1尺ほどに切られた竹などが捨てられていた。噂を聞いた人々は、面白がってこの怪異を目にしようと、その地に多くの見物人が集まるようになった。やがて、秋、冬と季節が流れるに連れて囃子の音は弱まっていったが、翌年の春頃には、謎の囃子の原因が一向につかめないことから人々は恐怖心を抱き、囃子の流れる夜になると決して外出しないようになった。春が過ぎると囃子の音は途絶え、ついに正体はわからないままだったという。
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