『甲子夜話』
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松浦静山(平戸藩主松浦清)の随筆『甲子夜話』にも、村正の話題は取り上げられている。 第42巻は、千代田の刃傷沙汰のことを載せている(発生した年と同年に書かれた記事)。文政6年(1823年)4月22日、御書院番松平外記が同僚三人を殺害、二人に傷を負わせた後に自害する。凶器は脇差で、同僚のうち一人はたった一刀で耳元から肋骨まで斜めに切り裂かれて即死するなどの、恐ろしい切れ味だったらしい。静山は、「その脇差は村正だった。世間は言う。この鍛冶は御当家に不吉であると。しかるに、また、こういうことが起きるのも不思議だ」とコメントしている。一方、別説として、脇差は村正ではなく、一尺三寸(約39.39cm)の関打平造だった、という説も併記している。 第62巻では、ある年(文政8年(1825年)?)、三田侯(九鬼隆国)が訪ねてきて静山と雑談するに、家臣の中に福島正則の転封(1619年)のとき三田藩に移ってきた者たちが四家から五家ほどいるのだが、これらの家はみな正則から賜ったという村正を所持している、「何かなる故にや」(「一体なぜだろうか」)と話している。しかし、村正の所持について不思議に思いつつも批難はしていない。
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