『田村三代記』
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仁明天皇の時代、伊勢国鈴鹿山に天降った立烏帽子が日本を覆そうとし、日本には立烏帽子に劣らぬ鬼神もいた。二人が協力すると日本は全滅するため、帝は田村丸利仁に立烏帽子征伐を命じた。立烏帽子は日本を魔国にするため、大嶽丸に度々協力の手紙を出したが返事がなく、立烏帽子を討つのに心迷った田村丸と夫婦となって子ももうけ、悪心を改めて日本の悪魔を静めるとした。田村丸に近江国鎌ヶ原の明石の高丸討伐が命じられ、常陸国鹿島の浦、ちくらが沖の「大りんが窟」へと追い詰め、立烏帽子の加勢で高丸を打ち、死骸を海中から引き上げて備前国に葬って供養し、塚の上に「木ひつの宮の大明神」を勧請した。田村丸夫婦は伊勢国へと帰るが、田村丸と夫婦となり、共に高丸を討ったことを怨んだ大嶽丸が立烏帽子を拐いにきた。立烏帽子は大嶽丸の力を弱くするために自ら捕らわれて田村丸に討ちとらせると教え、二人は泣く泣く別れた。 翌年、奥州霧山の天上に大嶽丸が現れて日本から人種が絶滅すると加茂明神の神勅が出たため、田村丸に大嶽丸征伐の宣旨が下った。田村丸は都の数々の神仏に祈願、家来の霞野忠太とともに能い馬に乗って大空を天翔けて奥州へ出立した。神通力で田村丸の奥州への到着を知った立烏帽子が、大嶽丸は天竹の「かんひら天王」と協力して日本を覆すため留守であることを教え、大嶽丸の500の眷属を神通の縄にかけて縛り、達谷が窟の門を開けて田村丸を奥へと案内し、その夜を2人で過ごした。天竹から帰ったきた大嶽丸は立烏帽子が田村丸を誘き入れ、眷属どもをしばってることに気付いて怒り、門を打ち破って丁と横手を合わすと眷属の縄が残らず解けた。大嶽丸は「田村丸主従と立烏帽子を木っ端微塵にするのは容易いが、大望を思い立つ身で賤しき者の死屍を見ては成就せぬ。霧山禅定に籠って、立烏帽子に溺れて失った三明六明の神通力を取り戻し、都で帝を微塵してやる」と飛び出し、霧山に籠ってしまった。田村丸と立烏帽子は大通連、小通連、剣明剣、そはやの剣を虚空へ投げ掛けて大嶽丸の眷属の鬼神を残らず討った。大嶽丸が霧山に3日籠れば三明六明の神通力を得て都へ上がってしまうが、山に籠ってる間に人に会うと成就しない。田村丸と立烏帽子は霧山へ急ぎ、田村丸が尋常に顕れて勝負を遂げんと大声で叫ぶと、仁王立ちで現れた大嶽丸がからからとうち笑い「己らを微塵にするのは容易いが、賤しき者の死屍を見ては我の大望の妨げになるゆえ、此処も許す。後に思いしらせん」と叫んで姿を消した。立烏帽子は神通力を改めるには遠くまで行かない、箟嶽山の「きりんが窟」であろうと教え、主従3人は箟嶽山を目指し急いだ。。 箟嶽山に着いたものの立烏帽子の神通力も通じず、きりんが窟の戸口を見つけることは出来なかった。3人は仏神に祈ると窟の扉は鉄でつなぎとめられ、大嶽丸は身動きできず、動くのは両目ばかり。大嶽丸は霧山で微塵にしていればと怒り嘆く。田村丸は大通連、小通連、顕明連、そはやの剣を投げて観音に祈ると、剣は虚空を切って廻り、大嶽丸の骸を4つ切りにした。大嶽丸の首は天に舞い上がり「この無念を田村丸利仁で晴らす」と火焔を吹いて5度飛び回って田村丸の甲のてっぺんを喰い切り、奥州と出羽の境に飛んでいき、その地は「鬼首(おにこうべ)」と呼ばれた。大嶽丸の死骸は土地の人たちと佐沼の郷へ運び、死骸を守るために霞野忠太を残して、田村丸夫婦は伊勢の御殿へと帰った。 立烏帽子は数日後に天命が尽きると言い、田村丸は泣く泣く都へ参内して鬼神を封じる宣旨が下った。田村丸は比叡山の座主・慈覚僧正と吉田社家を伴って奥州へと向かった。達谷が窟では慈覚僧正が7日7夜の護摩を焚き、吉田社家が108体の毘沙門天を造立した。箟嶽山ではきりんが窟を平らにして大嶽丸の首を築きこめて塚に観音堂を建て、無夷山箟峰寺の額をかけた。牧山には胴を築きこめて塚を造り、観音堂を建立した。富山にも足を築きこめて観音堂を建て、佐沼の郷の大嶽丸の死骸を置いたところにも手を入れて塚を築き地名を大嶽として観音堂を建立した。箟嶽山、牧山、富山、大嶽には慈覚僧正が自ら造った観音が祀られた。
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