ちくらが沖とは? わかりやすく解説

筑羅が沖

(ちくらが沖 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 13:34 UTC 版)

筑羅が沖(ちくらがおき)は、中世の物語草子や幸若舞説経節などの語り物にあらわれる架空のの名。日本朝鮮中国(唐土)との潮境にあったとされる海。対馬の沖合にあたる。「築羅が沖」「舳羅が沖」とも書く。

奥浄瑠璃『田村三代記』では、立烏帽子の託宣のとおり田村将軍明石の高丸退治の宣旨が下り、近江国蒲生が原で三日三夜の戦いの末に高丸に常陸国鹿島[1]へ引き退かれた。将軍が鹿島へ追いかけるも高丸が海へ飛び込み流れ着いたのが「唐と日本の汐境の築羅が沖」であり城郭を構えた。将軍は立烏帽子と二人で神通の車で大空を飛び三日三夜で築羅が沖に到着したとある[2][3]

脚注

  1. ^ 鈴木本「田村三代記」では信濃国諏訪の宮
  2. ^ 阿部幹男 2004, p. 30.
  3. ^ 青野本「田村三代記」(斎藤報恩会蔵)

参考文献

  • 阿部幹男『東北の田村語り』三弥井書店、2004年。ISBN 4-915146-44-8 

ちくらが沖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 00:49 UTC 版)

高丸 (人物)」の記事における「ちくらが沖」の解説

『田村三代記』での高丸は、唐と日本の汐境にあるちくらが沖に宮城構えて立て籠る。『大織冠』では八大龍王無価宝珠奪おうと「ちくらの沖」で万戸将軍襲い掛かった、『百合若大臣』では蒙古大軍撃退した百合若朝議によって追撃命じられ「ちくらが沖」で3年対峙したなどとあるように、ちくらが沖は中世御伽草子幸若舞説経節などの語り物共通して現れる架空の海の名前である。『田村三代記』近世演じられたため『大織冠』や『百合若大臣』など中世文学基盤の上展開されたことから、ちくらが沖が明石高丸討伐舞台とされたと考えられる

※この「ちくらが沖」の解説は、「高丸 (人物)」の解説の一部です。
「ちくらが沖」を含む「高丸 (人物)」の記事については、「高丸 (人物)」の概要を参照ください。

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