日本の「境」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/09 19:49 UTC 版)
「日本」という国土・領域の境界に関しての認識についても、様々な変遷を遂げている。 『宋書』によれば、倭の五王の1人武は、南朝皇帝への上表文において、「東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」と述べて、自己の領域拡大の実績について述べている。 中世に入ると、土地と同じように日本にも四至すなわち境界があると考えられるようになった。『延喜式』においては、陸奥国を東端、土佐国を南端、佐渡国を北端としている。刀伊の入寇に際して、「新羅(実際には高麗)の境に入るべからず」という大宰権帥より武士達への命令が出されており、日本と高麗間に国境が存在する事は意識されていた。中世においては、日本列島は東西に長く延びた形状をしており、夷島(北海道)あるいは外ヶ浜(津軽半島東部地域)と鬼界ヶ島(喜界島あるいは硫黄島)が日本の東西の果てとして、国内の穢れを放逐する土地(すなわち流刑地)とする考えが広く行われた。なお、その地理観から南北の端については余り意識されていなかったが、北を佐渡、南を土佐または熊野とする説がなされていた。また、日本と朝鮮・中国の国境として潮流の境目となる筑羅が沖(ちくらが沖)という観念が生じた。だが、国家主権が成立していなかった当時において、国境概念は非常に曖昧であり、妙本寺本『曽我物語』で、日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」とするなど、意識と現実の格差も見られており、後世にも影響を与えている。
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