隠州視聴合紀
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『隠州視聴合紀(いん・おんしゅうしちょうがっき)』は、江戸時代の寛文7年(1667年)に著された隠州(隠岐国)の地誌である。全4巻地図1葉。『隠州視聴合記』とも表記する。
- ^ もっとも、勘介の素性も実は定かではない(『島根県の地名』)。
- ^ 永海一正『黒木村誌』、昭和43年。
- ^ a b c d 『庶民生活資料集成』。
- ^ 『増補隠州記』に限っていえば、『視聴合紀』を国政要覧風に改めたものと見ることもできる。
- ^ 末尾の記事は写本によって配置に異同がある。
- ^ 例えば、現隠岐の島町下西の玉若酢命神社に参拝して仁王経会や最勝講会が行われているのを見て、「ああ、浮図(仏教のこと)の邪法至らざる所なし(原漢文)」と嘆き(下西村条)、現西ノ島町浦郷の由良比女神社の小規模な様子を見て、「恨むらくは土人城福寺(現常福寺)の仏なるを知り、この社の神なるを知らず。神在(ま)して亡(な)きが如し。ああ、哀しきかな(原漢文)」(浦ノ郷条)など。
- ^ 但し、義親が隠岐を領したとは「古老の伝えて曰く」を記したに過ぎず、その史実はない。
- ^ 石塚尊俊による「焼火山縁起」の解題(『神道大系神社編36出雲・石見・隠岐国』、神道大系編纂会、昭和58年所収)。
- ^ 内藤(2007)pp.8-11
- ^ 『日本人が知っておくべき竹島・尖閣の真相』(2012)pp.39-48
- ^ 五十猛命の上陸伝承のある石見国五十猛村(現・島根県大田市五十猛町)は、好字二字令により726年(神亀3年)に改称された際には「磯竹」の字が当てられている。『ふるさと読本』西部ブロック推進協議会(2005)
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「隠州視聴合紀」の続きの解説一覧
- 1 隠州視聴合紀とは
- 2 隠州視聴合紀の概要
- 3 参考文献
固有名詞の分類
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