竹島外一島
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竹島外一島(たけしまほかいっとう)とは、明治初期の日本のいくつかの公文書で言及される日本海西部の日本と韓国の間にまたがる不確定な二つの島で、日本と韓国の間で領有権争いがある竹島について、その争点のひとつとなっている。
- ^ 『竹島問題とは何か』(池内敏、2012、名古屋大学出版会)、pp.137-149.
- ^ 塚本孝「韓国の保護・併合と日韓の領土認識」『東アジア近代史』14(2011)
- ^ 国立公文書館 『朝鮮事件』「朝鮮国交際始末内探書」23P
- ^ 国立公文書館「公文録 内務省之部 明治十年三月」
- ^ かえれ島と海 Web竹島問題研究所 Ⅳ鳥取藩政資料に含まれる竹島絵図について(pdf)
- ^ 精密性が要求される独島研究(中央日報)
- ^ 鬱陵島の西北西 朝鮮半島との間に描かれた島。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 緯度経度ともほぼ正確。
- ^ トムソンの地図と酷似
- ^ 島の北半分が点線で描かれている。
- ^ a b 緯線経線はないが本州との位置関係よりほぼ比定できる。
- ^ 北緯37°52′ 東経129°50′となっている。
- ^ ドイツ語でnicht vorhanden(存在しない)と書かれている。
- ^ 緯度は不正確だが経度はほぼ正確。
- ^ a b 島の形が点線で描かれており、P.D.(position doubtful)位置が疑わしいとなっている。
- ^ 経度緯度ともほぼ正確。2つの島(男島・女島)が正確に書かれている。
- ^ ドイツ語でnicht Vorhanden(存在しない)と書かれている。
- ^ 経線との位置関係からほぼ比定できる
- ^ 現在の日本地図と変わらない非常に正確な地図。イギリス海軍によって編集されロンドンで発行された。
- ^ 経度緯度ともほぼ正確。フランス名、イギリス名、ロシア名で書かれている。
- ^ 現在の日本地図と変わらない非常に正確な地図
- ^ a b c d e f 島の形が点線で描かれている。
- ^ ジェイムズ・コルネットが最初に描いた年号が記載されている。
- ^ 経度緯度ともほぼ正確。男島・女島と見られる2つの島が描かれている。
- ^ 竹シマとリユンコヲルトローックの位置関係、島の大きさ形状から鬱陵島と比定できる。
- ^ 緯度経度とも正確。二島がロシア名で記載されその下に「一千八百六十年セルケエフ氏見取」と書かれた詳細な見取り図を記載。
- ^ 『日省録』の1793年の記述や『万機要覧』(1808年)の軍政編には『東国文献備考』(1770年)からの引用と思われる記述があるが『日省録』では、その後、1807年5月12日の項に鬱陵島を調査した役人の記録があり「北有于山島周回為二三里許」(北に于山島があって周囲は2~3里をなしている)と報告している。これは、于山島が鬱陵島の北にあって周囲が約800m–1200m(朝鮮の1里は約0.4km)であることを意味し、つまりは今日の「竹嶼」であって「朝鮮人の言う『倭人の言う松島』」(于山島)は「日本人(倭人)の言う松島」とは違っていることは明らかである(于山島参照)。
- ^ 西郷隆盛の主張を「征韓論」とする歴史観には反対意見は多い。つまり「西郷隆盛は征韓論でなく遣韓論だ。」という歴史観にもとづく意見も多い。
- ^ 後、金玉均らは1882年、1883年にも壬午事変の善後策の済物浦条約にもとづき、謝罪や賠償金交渉のためにも来日している。
- ^ 済物浦条約の賠償金50万円は、結局、金玉均らの友好的姿勢による働きで、初めは初回10万円の次からは支払い期間が延期され、最終的には40万円は免除となり同時に内火艇一艘、山砲二門が無償贈与されたので、国に対する賠償金50万円は、朝鮮側にとっては実質的にはゼロ以上になっている。
- ^ 北極星の高度で分かる
- ^ 三角測量のできない海上での経度を知る場合は、揺れる船の中でも時々刻々変わる太陽高度(赤緯)などを極めて精密に迅速に計測できる測量器具(六分儀等)と海上でも狂わない時計を必要とする。
- ^ 今日のGPS航法と似たような原理、惑星や、その衛星を観測して時刻を知れた極めて専門的な天文学者が、かなり大がかりな天体望遠鏡などを利用して揺れない海況で大型船舶で計測すれば学術的には可能だったかもしれないが、それができない一般の船舶乗組員が船員としての日常の実務上において時刻を精確に捉えることは不可能であった。
- ^ 前年の1876年に海軍省水路局が改編され柳楢悦が初代局長に任命されていた。
- ^ 前島密としては海事界での大先達の勝海舟(明治政府においても海軍で枢要な地位に置かれていた。)が編纂した『大日本国沿海略図』での鬱陵島二重記載という誤謬を公表しなければならない立場になってしまっていた、が、それをするのには海軍省の最新の機材を利用した調査もなしに断定できるはずもなかったという説である。
- ^ (むしろ、海事において勝海舟の師弟分にあった内務省の前島密にとっては、元幕臣同士として、明治政府で初代海軍卿になった勝海舟が幕末に編纂した海図での誤謬について公表することは避けたいことであって、海軍省にしてもらうほうが好都合だった、とも言える。
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