「朝鮮国交際始末内探書」
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「竹島外一島」の記事における「「朝鮮国交際始末内探書」」の解説
太政官指令に先立ち、明治政府は朝鮮に人を派遣し江戸時代に日本から渡航し開発していた竹島(鬱陵島)について詳細に調査している。その内容が1870年(明治3年)『朝鮮事件』の「朝鮮国交際始末内探書」に記載されており、その中に「竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末」とした文がある。江戸時代まで日本では鬱稜島を竹島、現在の竹島を松島と呼んでいたため、韓国ではこの一文を現在の竹島(独島)が自国領である根拠の一つとしている。 ところが、当時の朝鮮の文献では于山島が松島で朝鮮領となっており、また当時の多くの朝鮮の地図ではその于山島の位置がほぼ鬱陵島北東近傍の現在の竹嶼を指していた。(詳しくは于山島を参照)また、「朝鮮国交際始末内探書」は「松島は竹島之隣島ニ而 松島之義ニ付是迄掲載せし書留も無之」と記して、松島が竹島(現在の鬱陵島)の隣島であり、これまで記録した文書が無いと報告している。竹嶼が鬱陵島の隣にあること、竹嶼の資料が当時日本にないこと、一方、松島(現在の竹島)は鬱陵島の隣島ではなくて、約90kmも離れていること、当時日本には松島(現在の竹島)の資料が多数存在していたことなどから、日本ではこの文面の松島は現在の竹嶼を指していると考えられている。 原 文 一 竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末此儀 松島は竹島之隣島ニ而 松島之義ニ付是迄掲載せし書留も無之 竹島之義ニ付而は元祿度之往復書翰手續書写之通ニ有之 元祿度後は暫く之間朝鮮より居留之もの差遣置候処 当時は以前の如く無人と相成 竹木又は竹より太き葭を産し人参等自然に生し其餘漁産相應ニ有之趣相聞候事右は朝鮮國事情實地偵索いたし候処大略書面之通御座候間一ト先歸府仕候 依之件々取調書類絵圖面とも相添此段申上候 以上 午四月 外務省出仕 佐田白茅 森山茂 斎藤栄 現代文 一竹島と松島が朝鮮附属になった事情この件につき、松島は竹島の隣島で、松島の件につきましては、これまで掲載した書類もありません。 竹島の件につきましては、元禄時の往復書簡、手続書写しの通りでした。 元禄時、後の暫くの間、朝鮮より居留の者を送っていましたが、現在は以前のごとく無人となり、竹木又は竹より太い葭を産し、人参等も自然に生じ、そのほか漁獲も相応にあると聞きました。右は朝鮮国の事情を実地偵索いたしましたところ、大略、書面の通りでございましたので、ひとまず帰任いたしました。ご下命の件、取調べ書類絵図面とも添付しまして、ご報告申し上げます。 以上 明治三年四月 外務省出仕 佐田白茅 森山茂 斎藤栄
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