「竹島外一島」とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 07:15 UTC 版)
生れたばかりの明治政府は近代的な地籍を編纂するために、朝鮮と日本の間の不正確な島について調査した。当時はすでに近代的測量で作られた西洋の地図や日本の地図が多数あったが、これらの地図には「アルゴノート島(Argonaut)・竹島」と書かれた実在しない島、「ダジュレー島(Dagelet)・松島」と書かれた島、「Liancourt Rocks・Hornet」などと書かれた島、の3つがあった。これらの島のどれが日本の領有になるのか。この時、明治政府が朝鮮側の資料を調べさせた報告書が「朝鮮国交際始末内探書」で、日本側(島根県)の資料を調べさせた報告書が「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」である。元禄時代に起きた朝鮮と日本との間での領土問題(竹島一件)において、日本は竹島(鬱陵島)を放棄しているが、この時の交渉には松島(現在の竹島)の名前はなく竹島のみである。また「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添付された元禄時代の古地図「磯竹島略図」は参考に添えられたが、太政官指令に松島の名は出てこない。当時の近代的地図上では、同一路線上に架空の島が「アルゴノート島・竹島」、鬱稜島が「ダジュレー島・松島」になっており、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」や「太政官指令」の「竹島外一島」は実在しない「アルゴノート島・竹島」と「ダジュレー島・松島」を意味していた可能性が高い。太政官指令の発せられた3年後の日本の軍艦「天城」の調査で島の名称の誤りが判明するが、混乱を避けたためか鬱稜島に書かれた「松島」の名称もそのまま地図に記載され、西洋名称となっていた現在の竹島を1905年に島根県に編入する際に『竹島』としている。一方、朝鮮では1908年に大韓帝国の高宗の命により編纂された『増補文献備考』まで于山島が松島であるとしており、当時の朝鮮の地図では鬱陵島の北東近傍にある「竹嶼」と見られる島が于山島となっている。また、朝鮮側の地図には現在の竹島と比定できる島は全く記入されていないため、これら朝鮮側の記録からすると「朝鮮国交際始末内探書」に書かれた松島は于山島で現在の竹嶼となる。日本の「磯竹島略図」にも、朝鮮の地図の「鬱陵島」北東近傍の「于山島」と同様、「磯竹島」北東近傍に竹嶼と見られる「マノ島」と書かれた島が描かれている(元禄年間に書かれた鳥取藩の「小谷伊兵衛差出候竹嶋之絵図」にも「まの嶋」が書かれている)。「磯竹島略図」には現在の竹島を示す「松島」も描かれているが、太政官指令では「竹島・松島」とせず「竹島外一島」としていることから、鬱陵島と竹嶼を明治期の地図にはない「マノ嶋」の名称は使用せず「竹島外一島」と表したとする考えもある。 いずれにしても日本が島根県に編入する1905年までに現在の竹島を朝鮮人が支配した事実はない。(1908年までの朝鮮での鬱陵島付近の認識は于山島を参照)
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