「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の意味・解説 

「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 07:15 UTC 版)

竹島外一島」の記事における「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」の解説

1876年明治9年)、内務省 地理寮官吏地籍編纂調査のため島根県巡回した際、県に対して竹島地籍編纂のため内務省詳細報告するよう要請した。 そのため、島根県内務省に対して下記の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」により、地籍への編入可否について照会行なった。この照会文書には、竹島へは大谷家村川家が江戸時代幕府許可得て渡っていたことが記され概略文書と「磯竹島略図」が添えられていた。 日本海竹島外一島地籍編纂方伺<2ページ目>(国立公文書館 アジア歴史資料センター原文 日本海竹島外一島地籍編纂方伺御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為本巡回ノ砌日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙第二十八号之通照會有之候處本島永禄發見之由ニテ鳥取藩之時元和四年ヨリ元禄八年マテ七十八年間同藩領伯耆國米子町商大谷九右衛門村川市兵衛ナル旧幕府許可ヲ経テ毎歳渡海島中動植物ヲ積帰リ内地賣却致シ候ハ已ニ確証有之今ニ古書旧状等持傳候ニ付別紙原由ノ大畧圖面共相副不取敢致上申今回全島實檢之上委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處固ヨリ本縣管轄確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔線路不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ右大谷村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細上申可致候而シテ大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖記載地籍編入スル等之儀ハ如何取計可然哉何分御指令伺候縣令佐藤信寛代理 明治九年十月十六日 島根縣参事境二郎 内務卿大久保利通殿 現代文 日本海内の竹島一島地籍編纂についての伺い 御省(内務省地理寮官吏地籍編纂調査のために本県(島根県巡回の際、日本海にある竹島調査について別紙第二十八号の通り照会ありました本島永禄年間発見されとあって、旧鳥取藩の時、元和年より元禄八年までおよそ七十八年間、同藩領伯耆国 米子町商人大谷右衛門 村川市兵衛なる者が旧幕府許可経て毎年渡海し、島の動植物積み帰り内地売却したのは間違いありません。今に古書・旧書状等を持ち伝えているので、別紙事の起こり概略図面と共に添えとりあえ上申致します今回全島実検の上委曲詳細に記載すべきところですが、もともと本県の管轄確定したわけでもなく、また北の海へ400km余り離れ航路も明らかではありません。普段帆船等がしばしば往復しなければならないでもないので、右大谷家村川家に伝わる記録につき、追って詳細上申いたします。そして、そのおおよそ推察するに、管内隠岐国北西方にあたり山陰一帯西部付属すべきかと思われますので、本県管轄図に記載し地籍編入する等の件をどのように取り計らえば良ろしいか、何分の御指示仰ぎます。 県令 佐藤信寛 代理 明治九年十月十六日 島根県 参事 境二郎 内務卿 大久保利通 殿 上記「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添えられ文書には竹島松島状況書かれ次に元禄時代江戸幕府朝鮮の間で鬱陵島当時日本名竹島)の領有について争った竹島一件内容詳しく書かれている。そして元禄年間書かれ鳥取藩小谷兵衛差出竹嶋絵図」を書き写し清書したと見られる磯竹島略図最終ページ>」が添付されている。(但し、この文書には「大谷氏伝フ所享保年間製図縮写シ附ス」と書かれている。) 原文竹島松島について書かれ最初部分抜粋磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ瀑布アリ…(鬱陵島状況)…次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許竹稀ナリヲ産ス… 現代文 磯竹島竹島と呼ぶ。隠岐国北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。…次ぎ一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又獲れる。… この文には、磯竹島略図記載の距離がそのまま書かれており、隠岐北西120里(約480km)に周囲およそ10里(約40km)の竹島があって、次の一島周囲30町(約3270m)の松島で、竹島同一路線隠岐より80里(約320km)にあるとしている。「磯竹島略図」は明らかに現在の鬱陵島竹島」を示しており、この文の「竹島」の状況位置関係の比からすると竹島外一島」は現在の鬱陵島竹島」を示していると言えそうだが、本文の距離と実際の距離は大きく食い違う。これは「磯竹島略図」が測量に基づくものではなく元禄時代鳥取藩小谷兵衛差出竹嶋絵図」にある距離をそのまま記載したものだからである。「磯竹島略図」の隠岐松島の距離は八十里(320km)となっているが、隠岐から現在の竹島までの実際の距離は約158km、隠岐から鬱陵島までの実際の距離は約250kmで、当時普及していた近代的地図鬱陵島示した松島」や架空の「竹島」に近い。江戸時代まで日本では鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいたため、韓国ではこの文や絵図根拠に、後の太政官指令で「竹島外一嶋之義本邦関係無」とした「竹島外一島」を「鬱陵島現在の竹島」と解し日本と関係ないのであるから韓国領であるとしている。 韓国帰化した世宗大学校保坂祐二教授は、明治時代以前日本では地上海上も同じ「里」としているがその距離概念違っていたとしている。これらの距離の里を海里(1海里=1852m)として計算すると、鬱陵島現在の竹島実際の距離に近くなるとして、当時日本地図記載間違いなどは日本歪曲的解釈であり、1905年竹島島根県編入日本軍国主義による侵略の始まり位置付けている。しかし、本文の距離(里)は元禄年間書かれ鳥取藩竹嶋絵図」の距離であり、明治になって取り入れられ海里ではない。 上記文中の距離の比較記述朝鮮竹島竹島松島松島隠岐竹島周回記述五十里 四十八十十里 里→km200km 160km 320km 40km 実際の距離131km 90km 158km 56.6km 里を海里解釈した場合93km 74km 148km 19km (上記実際の距離は「竹島」を鬱陵島、「松島」を現在の竹島とした場合

※この「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」の解説は、「竹島外一島」の解説の一部です。
「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」を含む「竹島外一島」の記事については、「竹島外一島」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」の関連用語

「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの竹島外一島 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS