「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」
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「竹島外一島」の記事における「「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」」の解説
1876年(明治9年)、内務省 地理寮の官吏が地籍編纂調査のため島根県を巡回した際、県に対して竹島の地籍編纂のため内務省に詳細を報告するよう要請した。 そのため、島根県は内務省に対して、下記の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」により、地籍への編入の可否について照会を行なった。この照会文書には、竹島へは大谷家と村川家が江戸時代に幕府の許可を得て渡っていたことが記された概略の文書と「磯竹島略図」が添えられていた。 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺<2ページ目>(国立公文書館 アジア歴史資料センター) 原文 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為本縣巡回ノ砌日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号之通照會有之候處本島ハ永禄中發見之由ニテ故鳥取藩之時元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間同藩領内伯耆國米子町之商大谷九右衛門村川市兵衛ナル者旧幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海島中ノ動植物ヲ積帰リ内地ニ賣却致シ候ハ已ニ確証有之今ニ古書旧状等持傳候ニ付別紙原由ノ大畧圖面共相副不取敢致上申候今回全島實檢之上委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ右大谷某村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何取計可然哉何分ノ御指令相伺候也 縣令佐藤信寛代理 明治九年十月十六日 島根縣参事境二郎 内務卿大久保利通殿 現代文 日本海内の竹島他一島の地籍編纂についての伺い 御省(内務省)地理寮官吏が地籍編纂の調査のために本県(島根県)巡回の際、日本海にある竹島の調査について、別紙乙第二十八号の通り照会がありました。本島は永禄年間に発見されたとあって、旧鳥取藩の時、元和四年より元禄八年までおよそ七十八年間、同藩領内伯耆国 米子町の商人大谷九右衛門 村川市兵衛なる者が旧幕府の許可を経て毎年渡海し、島の動植物を積み帰り内地に売却したのは間違いありません。今に古書・旧書状等を持ち伝えているので、別紙に事の起こりの概略を図面と共に添え、とりあえず上申致します。今回全島実検の上、委曲を詳細に記載すべきところですが、もともと本県の管轄に確定したわけでもなく、また北の海へ400km余りも離れ、航路も明らかではありません。普段、帆船等がしばしば往復しなければならない訳でもないので、右大谷家、村川家に伝わる記録につき、追って詳細を上申いたします。そして、そのおおよそを推察するに、管内隠岐国の北西方向にあたり、山陰一帯の西部に付属すべきかと思われますので、本県管轄図に記載し地籍に編入する等の件をどのように取り計らえば良ろしいか、何分の御指示を仰ぎます。 県令 佐藤信寛 代理 明治九年十月十六日 島根県 参事 境二郎 内務卿 大久保利通 殿 上記「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添えられた文書には竹島と松島の状況が書かれ、次に元禄時代に江戸幕府と朝鮮の間で鬱陵島(当時の日本名:竹島)の領有について争った竹島一件の内容が詳しく書かれている。そして元禄年間に書かれた鳥取藩「小谷伊兵衛差出候竹嶋之絵図」を書き写し清書したと見られる「磯竹島略図<最終ページ>」が添付されている。(但し、この文書には「大谷氏伝フ所享保年間ノ製図を縮写シ附ス」と書かれている。) 原文 (竹島と松島について書かれた最初の部分の抜粋) 磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ…(鬱陵島の状況)…次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス… 現代文 磯竹島を竹島と呼ぶ。隠岐国の北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険で平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。…次ぎに一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島と同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又魚や獣が獲れる。… この文には、磯竹島略図に記載の距離がそのまま書かれており、隠岐の北西120里(約480km)に周囲およそ10里(約40km)の竹島があって、次の一島が周囲30町(約3270m)の松島で、竹島と同一路線の隠岐より80里(約320km)にあるとしている。「磯竹島略図」は明らかに現在の「鬱陵島と竹島」を示しており、この文の「竹島」の状況や位置関係の比からすると「竹島外一島」は現在の「鬱陵島と竹島」を示していると言えそうだが、本文の距離と実際の距離は大きく食い違う。これは「磯竹島略図」が測量に基づくものではなく元禄時代の鳥取藩「小谷伊兵衛差出候竹嶋之絵図」にある距離をそのまま記載したものだからである。「磯竹島略図」の隠岐と松島の距離は八十里(320km)となっているが、隠岐から現在の竹島までの実際の距離は約158km、隠岐から鬱陵島までの実際の距離は約250kmで、当時普及していた近代的地図の鬱陵島を示した「松島」や架空の「竹島」に近い。江戸時代まで日本では鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいたため、韓国ではこの文や絵図を根拠に、後の太政官指令で「竹島外一嶋之義本邦関係無」とした「竹島外一島」を「鬱陵島と現在の竹島」と解し、日本と関係ないのであるから韓国領であるとしている。 韓国に帰化した世宗大学校の保坂祐二教授は、明治時代以前の日本では地上も海上も同じ「里」としているがその距離概念は違っていたとしている。これらの距離の里を海里(1海里=1852m)として計算すると、鬱陵島と現在の竹島は実際の距離に近くなるとして、当時の日本の地図の記載間違いなどは日本の歪曲的解釈であり、1905年の竹島の島根県編入は日本の軍国主義による侵略の始まりと位置付けている。しかし、本文の距離(里)は元禄年間に書かれた鳥取藩「竹嶋之絵図」の距離であり、明治になって取り入れられた海里ではない。 上記文中の距離の比較記述朝鮮~竹島竹島~松島松島~隠岐竹島周回記述五十里 四十里 八十里 十里 里→km200km 160km 320km 40km 実際の距離131km 90km 158km 56.6km 里を海里と解釈した場合93km 74km 148km 19km (上記の実際の距離は「竹島」を鬱陵島、「松島」を現在の竹島とした場合)
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