「竹島一件」後の竹島(鬱陵島)
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「竹島一件」の記事における「「竹島一件」後の竹島(鬱陵島)」の解説
徳川幕府の外交文書を集めた『通航一覧』に、竹島一件以後の竹島(鬱陵島)について、享保年間(1716-35)までは、隠岐や長門から竹島(鬱陵島)に渡って大竹を持ち帰っていたのが、その後は朝鮮人が島にいて、船を近づけると鉄砲を撃って島に上陸させないと記されている。竹島(鬱陵島)渡航禁止後も、日本人は無断で竹島(鬱陵島)に渡っており、またこの頃の朝鮮でも竹島(鬱陵島)の空島政策は有名無実になっていたようで、竹島(鬱陵島)には朝鮮人が住みつき、日本の船を銃で追い払うまでになっていた。 「……むかし隠岐の辺より渡て、大竹を切来て諸方へ売、甚だ大にしてよき竹也と云ふ、近来その島へ渡る時は、朝鮮人多く来て、此方の船を見れば鳥銃を撃て船を近づけずと云ふ、この島果して日本の属島なれども、遂に朝鮮に取られたり」 現代文(……むかし隠岐の辺りより渡って、大竹を切りに来ていろんな所へ売り、非常に大きく良い竹だと言われている。近頃この島へ渡る時は、朝鮮人が多く来て、こちらの船を見れば鳥用の銃を撃って来て船が近づけられないらしい。この島は結局、日本の属島であるけれど、ついに朝鮮に取られてしまった。) トラブルを憂慮した幕府は「異国航海」の厳禁を改めて通達した。その政策にしたがって奉行所も密航者を処罰していたようで、1723年(享保8年)6月には、大坂町奉行所が、享保7年以前に竹島(鬱陵島)に渡って密貿易をしたといって、石見国・大森代官所支配地の3名を捕えて処分している。また1836年(天保7年)には石見国浜田藩会津屋八右衛門の竹島密貿易事件が起き、その裁きの判決文には「松島へ渡航の名目をもって竹島にわたり」と記され処罰されている(竹島事件)。その他松浦静山の『甲子夜話』には、同様の事件が浜田藩だけでなく対馬、越後長岡、北国などでも行われていたことが書かれている。 加賀藩士青地礼幹の随筆集『可観小説』(1715年)には、竹島一件についての伝聞書「日本の竹島、朝鮮へ奪はるゝ事」という一節がある。 「元禄年中因州へ隷属せし竹島、朝鮮国へ被奪取候本末。此竹島元は隠岐州へ属候小島にて、方一里も有之……」 現代文(元禄年間に因幡へ属していた竹島が、朝鮮国へ奪い取られてしまった。この竹島は元は隠岐へ属した小島で、大きさは一里四方もあった……) 正徳元年(1711年)の京都滞在中に、相国寺慈照院主だった別宗祖縁からの伝聞である。同僧は事件当時、対馬以酊庵の輪番で対朝鮮外交に携わり、この一件の事情にもよく通じていた。対馬では武士、平民から僧侶までも、将軍綱吉の失態と憤ったという。文中での「竹島」とは、朝鮮のいうところの欝梁島(原文ママ)である、と明記されている。同書は加賀藩士民の上下問わずよく読まれていた。 竹島一件後に発行された森幸安の日本分野図にも依然竹島が記載され、1779年に初版が発行され普及していた長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』にも全て竹島(鬱陵島)と中継地点である松島を記載している。なおも竹島(鬱陵島)との関係が強かったことがうかがえる。 幕府は1837年2月21日付で、改めて「異国航海之儀は重き御禁制」と全国に通達する。その中で竹島(鬱陵島)については「元禄之度 朝鮮国之御渡しに相成候以来、航海停止被仰出候場所に有之」と述べている。
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