「競週ニュース」から「ケイシュウNEWS」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 14:48 UTC 版)
「ケイシュウNEWS」の記事における「「競週ニュース」から「ケイシュウNEWS」へ」の解説
白井は1972年(昭和47年)5月、広告代理店『インターナショナル宣伝』『共栄興業』を率いていた松岡正雄に会社を譲渡。なお譲渡の過程で大川が解説を務めていた日本短波放送の幹部が仲介したとの説もあり、山崎正行は「日本短波の競馬専門紙」と晩年の自著に記したが、日本短波の後身である日経ラジオ社はこれを否定している。 譲渡の際に「競週ニュース」は現行の「ケイシュウNEWS」へ紙名が変更されるとともに、大川を専属評論家として復帰させた。更に専門紙発行に全力投球するという名目で『競馬週報』を休刊、派生誌の月刊『競週地方競馬』は廃刊、また旧昼夜通信社から引き継いだ『昼夜通信』も廃刊して政治関連の取材から撤退した。競馬週報編集部が手掛けていた『啓衆賞』は元編集者が移籍していた縁もあり、中央競馬会本部の『優駿』編集部に引き継がれて『優駿賞』となった。なお『公営日本一』は一時途絶えたが、1978年にそれまで馬主だけだった地全協会長賞の対象が拡大されたことで事実上復活。1990年(平成2年)、馬に対する表彰が復活しNARグランプリとなった。 「JRA賞#概要」および「NARグランプリ#競走馬に関する表彰」も参照 翌1973年(昭和48年)、報知新聞で本紙予想を務めていた山崎が加入。 1980年には紙面の大幅なリニューアルを敢行すると同時に、題字をスカイブルーとした。なおこの頃には、大川が中央版の発行人を務めていた。 会社譲渡後は様々な打ち手が功を奏し一旦は売上が回復してきたが、80年代以降競合誌の1馬と競馬エイトが売り上げを伸ばしたことや、スポーツ新聞の競馬欄の拡大などといった事情により「ケイシュウNEWS」は苦戦を強いられる。1994年(平成6年)、大川が日刊スポーツと契約するためケイシュウを去る。 「大川慶次郎#パーフェクト予想達成、「競馬の神様」に」も参照
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