80年代以降
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80年8月に元・村八分のギタリスト、山口冨士夫が加入。またスタジオでレコーディング(公表されずに終わる)も行った。その時のメンバーは水谷、山口、野間、Doroncoという編成。この4人による裸のラリーズは雑誌メディアなどからも注目され、当時のパンク/ニューウェーヴの、よりアンダーグラウンドなアーティストたちとのイメージ的な親近性を得る中で、裸のラリーズが現役最年長のアンダーグラウンド・ロック・バンドとして認められていたことが、そこでの記事からは窺い知れる。山口は81年の3月まで在籍した。 81年の後半からは水谷、Doronco、野間に時折サポートを加える形が取られていた。83年11月にはベースが大岩勝に、その1年後には高橋ヨーカイに交代するなど編成が流動的になるが、この時期の彼らは記録として残ったものを見る限り、88年の夏を最後に水谷が渡仏するまでコンスタントにライヴ活動を行っていた事が分かる。ただし80年代において、裸のラリーズは既に伝説的存在として扱われてもいた。この時代、日本のロックは全般的にメジャー化し、裸のラリーズとイメージ的な親近性を持っていたアンダーグラウンドなシーンも変質を余儀なくされる。そういった状況に対して、裸のラリーズは超然と変わらぬ姿勢を保持していたが、同時にそれはこのバンドが水谷孝主導のユニットという在り様より色濃くしていた。また80年代半ばには音楽評論家の阿木譲を介してレコーディングが計画されたが頓挫したという。 水谷がフランス滞在中の91年8月、初の公式アルバム『'67-'69 STUDIO et LIVE』『MIZUTANI -Les Rallizes Denudes』『'77 LIVE』がリリースされる。また、このリリースに関して、湯浅学氏がファクスを使っての質疑応答に成功し、その模様が「ミュージック・マガジン」1991年11月号掲載される。水谷自身が取材に応じることは滅多になく、これほどの分量の物はおそらくこれが唯一である。そして、92年9月には初のビデオ『Les Rallizes Denudes』をリリース。そして、93年2月には5年ぶりにコンサートを行ったが、以前に比べて散発的で、94年に2回、95年、96年に1回行ったのみとなった。そして、水谷の公式の記録としての最後の演奏は97年11月、サックスのアーサー・ドイル、ドラムの豊住芳三郎とのセッションとされている。以降、活動を停止した。
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80年代以降
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1988年「EVERLASTING TRADITIONAL COLLECTION」では、アイビーリーグ校を再訪し各校の風景が撮影され、1990年「NANTUCKET ISLAND」と改めて創業当時の良きアメリカを表現するテーマが掲げられた。 2008年にアメリカのファッション系ブログにVANの1965年の写真集『Take Ivy』が掲載され拡散されたことをきっかけに、2010年にブルックリンの出版社から英語版が刊行され、世界で5万部を販売した。ラルフ・ローレンやJクルーなどの店頭に飾られ、ネオ・アイビー・スタイルとして雑誌などでも話題になった。
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80年代以降
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WGPシリーズから外れたマン島TTレースは市販車ベースのマシンによるレースとなり、1977年からはTTフォーミュラのレギュレーションに沿ったクラスでレースを開催した。1977年のマン島には、WGP時代にマン島レース批判し続けたフィル・リードがエントリーして物議を醸した。しかし、翌年のマイク・ヘイルウッドらトップライダーたち参戦の呼び水ともなり、またジョイ・ダンロップをはじめとする新たなスターライダーも誕生した。 現在[いつ?]、代表的なTTレースのオートバイは空力特性の優れる流線型カウルと技術の向上によりスネーフェル・コースを平均120mph(193km/h)を超えるスピードで駆け抜けていく。平均速度の記録は年々塗り替えられ、2002年にデビッド・ジェフリースが127.29mph(204.81km/h)を記録し、2004年にジョン・マクギネスがヤマハYZF-R1で127.68mph(205.43 km/h)を記録、2006年にマクギネスは129.451mph(208.33km/h)と更に記録を更新した。
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80年代以降
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デイヴィスは、1980年代初頭に商業的ピークに達したとき、成功と失敗の両方を通してバンドを見た。バンドは当時レコード販売に大きな影響を及ぼしたMTV文化を取り入れて、商業的手法の調整を開始した。 1982/83年のシングル「カム・ダンシング」のミュージックビデオは、シングルをイギリスのチャートで12位、アメリカで6位に引き上げるのに貢献した。この曲は1965年の「ウェイティング・フォー・ユー」以来の最大のヒット曲であった。 キンクスの人気は1985年に衰退し、アルバムはチャートインすることがなくなった。ミック・エイヴォリーはディヴィスとの関係が悪化し、アリスタでの最後のアルバム『ワード・オブ・マウス』の後にバンドを去った。エイヴォリーの代わりとしてボブ・ヘンリットが加入した。エイヴォリーはレイ・デイヴィスの提案で、コンク・スタジオを管理することに同意した。彼は後のキンクスのアルバムでプロデューサーを務め、演奏にも時折加わった。 キンクスは1985年後半に契約をMCA(US)とロンドン(UK)に切り替え、次のアルバムである『シンク・ヴィジュアル』の制作を開始した。アルバムは1986年にリリースされたが、ビルボード・チャートでは最高81位を記録しただけであった。批評家の評価は芳しいものではなく、重要なラジオ番組でもオンエアされなかった。オールミュージックのスティーヴン・トマス・アールワインは後に、このアルバムは「レイ・デイヴィスが一連の有能でありながら区別のつかないハードロッカーを生み出し続けたため、キンクスの芸術的な行き止まりを表した」とコメントした。 デイヴは『シンク・ヴィジュアル』に「ロックン・ロール・シティ」と「ホエン・ユー・ワー・ア・チャイルド」の2曲を提供した。 バンドはMCAでさらにいくつかのアルバムを制作した。彼らのMCAでの最後のスタジオアルバムは1989年の『UK ジャイヴ』であった。『シンク・ヴィジュアル』よりもわずかに好評であったが、トップ100に入ることはできなかった。デイヴ・デイヴィスは「ディア・マーガレット」を提供した。カセットとCDにはデイヴの曲がさらに2つ、「ブライト・ライツ」と「パーフェクト・ストレンジャー」が収録された。 キンクスはMCAとの契約を解消したが、新たなレコードレーベルを見つけるのに苦労した。創設メンバーの4人が1990年にロックの殿堂入りしたが、彼らの人気が復活するまでには至らなかった。最終的にキンクスはコロムビア・レコードと契約し、1993年4月13日に最後のスタジオアルバムである『フォビア』をリリースした。宣伝とマスコミの注目にもかかわらず、アルバムの売り上げは伸びず、チャートも166位が最高であった。同時にリリースされたシングルもチャートインできなかった。デイヴは「イッツ・オールライト」と「クローズ・トゥ・ザ・ワイアー」の2曲を提供した。 コロンビアは1994年に契約を解消し、キンクスは古いコンク・レコードに戻らざるを得なかった。バンドは1994年に小さな独立レーベルのクレープヴァイン・レコードから『トゥ・ザ・ボーン』をリリースした。 キンクスは1996年にレコーディングとツアーを中止した。その後レイとデイヴは2015年12月18日にロンドンのイズリントン・アセンブリー・ホールのステージ上で再会し、「ユー・リアリー・ガット・ミー」を演奏した。ローリング・ストーン誌は彼らのパフォーマンスを「興奮」と呼んだ。
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