80年代以降から現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:52 UTC 版)
「日本の新左翼」の記事における「80年代以降から現在まで」の解説
学生自治の伝統のある大学では、1990年代半ばまで新左翼が一定の影響力を残したが、近年では大学側が攻勢に出て排除される場合が多い。「自治会」側が大学側の攻勢にほとんど対抗しえていないのは、「内ゲバ」をこととする新左翼諸党派による大学の暴力支配(他党派の活動家やノンセクト活動家などを暴力的に排除することが日常的に行われていた)や新左翼自身のテロや殺人を行ってきた「負の歴史」によって、一般学生の支持を失っていることが最大の原因と思われる。 1990年代に入り、ソ連などの「社会主義国家」群崩壊によって、その内部事情が明らかになるにつれ、組織・運動から離れていった者も少なくない。21世紀に入ってからは高齢化という問題も浮上した。新左翼諸派はさらなる孤立化を防ぎ、若手の獲得のため非合法活動を控え、ソフトな合法活動に力を入れているのが最近のすう勢である。若手獲得・組織拡大の具体的方法には、セクト色を隠し労働組合や市民運動を通しての組織拡大、地方議会への進出、青年組織を再建しその拡大に重点を置くといった方法がある。中核派が、同派と関係のある「つくる会の教科書採択に反対する杉並親の会」を通して、2005年に反対運動を繰り広げたことや、2004年に開催された「11.7全国労働者総決起集会」で、過去最高の約2,350人を動員した(平成17年 警察白書より)ことなどはその代表例と言える。また、革マル派はセクト色を隠し、同派系の団体を通しての反戦運動・反基地運動に取り組んだり、同派と関係のない他団体が主催する集会に参加したりしている。現在、主だった日本の新左翼党派は直接自党に加入させるよりも、まずは関連の深い下部組織に入会させるという路線を採っていることが多い。中核派には「NAZEN」、共産主義者同盟 (統一委員会)には「アジア共同行動・日本連絡会議」、日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)には「アジア連帯講座」といった組織がある。これらの組織は党本体とは異なり、年会費を収めるだけで入会できるパターンが多く、入会しやすくなっている。 地方議員を抱えている党派は中核派、日本労働党、緑の党 (日本 1981)、市民の党(旧「MPD・平和と民主運動」「大衆党」「平和:市民」)、日本共産党(左派)(「人民の星」派)、旧共産主義労働者党など。社青同解放派や旧社会主義労働者党、旧マルクス主義青年同盟なども国政選挙や知事選挙に出馬したが、当選者を出すには至らなかった。現在では新左翼各派は独自の候補者を出馬させることは少なく、社民党などの既成左翼の候補者を支援することが多い(ただし、日本共産党を支持することは滅多にない)。 なお、新左翼が使用する基本的外国語は、ドイツ語だった。例、パルタイ、ブント、ケルン、ゲヴァルトetc。これはマルクスとエンゲルスがドイツ語を使用し、またマルクスと関係の深い哲学がヘーゲルをはじめ、ドイツ観念論やヘーゲル左派などドイツ系の哲学であり、原書がドイツ語だったことによる。英語の使用頻度が高くなるのは、日本赤軍などが国際テロ組織化してからである。新左翼における文法語学から、実用語学への転換ともいわれる。 早稲田大生が始めた脱資本主義を掲げたオルタナティブ運動としてのだめ連、「ゆるいアナキズム」を提唱した栗原康など街頭闘争より生活スタイルの変換に重視を置く運動も起こっている。
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