フランス滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 03:03 UTC 版)
「ジャック・ジョンソン (ボクサー)」の記事における「フランス滞在」の解説
1912年12月に、ジョンソンはベル・シュライバーを同行させ、マン法違反で逮捕され、裁判で有罪判決を受けた。判事のジョージ・カーペンターはジョンソンに禁固1年と1日、そして1000ドルの罰金を言い渡した。これは、黒人の中で最も有名な人間は、その黒人全体に与える影響が大きいのだから、罰金以上の刑が必要というのがその理由だった。しかし保釈中のジョンソンはカナダ経由でパリに渡り、1913年12月19日にそこでバトリング・ジム・ジョンソンを相手に防衛戦を行った。しかし、試合中に左腕を傷め、試合は凡戦のまま10R引き分けに終わり、試合後に大ブーイングを浴びた。翌1914年6月27日にアメリカのフランク・モランを相手にフランスで2度目の防衛戦を行った。結果、20R判定でジャクソンが防衛を果たした。ところが、試合中にファイトマネーの引き出し状を持っていた弁護士のルシアン・セルフが急逝し、引き出し状の行方が分からなくなってしまう。その為、フランス銀行から金を引き出せず、ジャクソンはファイトマネーの一部である2万ドルを受け取り損ねてしまった。 またこのフランスへの逃亡中に、アメリカでは勝手に世界ヘビー級王者決定戦が挙行されていた。1913年1月1日にアメリカのプロモーターは勝手に新たに世界ヘビー級タイトルマッチを行い、白人同士で世界王者決定戦をやらせた。もちろん、この世界戦は正規の世界戦として現在でも認められておらず、この試合で勝ったルーサー・マカーティは王者として認められていない。こうして妙な世界ヘビー級王者になったルーサー・マカーティはカラーラインを宣言し、黒人との試合を拒んだ。なお、マカーティは世界王座防衛戦直前に落馬して首の骨を折っていたことが原因で試合中に倒れた。そしてその直後に急逝した。この王座はジョルジュ・カルパンチェに引き継がれていった。
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