フランス海軍における海軍戦術の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 04:45 UTC 版)
「帆船時代の海戦戦術」の記事における「フランス海軍における海軍戦術の発展」の解説
フランス海軍では、戦術家のポール・オスト、ビゴー・ド・モローグ、ブールド・ド・ヴィルユーの論文で帆走戦術が発展した。また他言語にも翻訳された。 18世紀、フランス政府は制海権を求めて戦うよりも個々の作戦目的の達成を優先させる戦略を取った。フランス政府はその戦略的な目的を達成するために戦術的なリスクを冒すことに消極的だった。海軍はその命令の臆病さに拘束されていた。フランス艦隊はイギリス艦隊と戦うリスクを冒すよりも避ける方を選んだ。それは例えば1780年6月、ド・テルネーがバミューダ沖でウィリアム・コーンウォリス指揮下のイギリス戦隊に遭遇した時の行動に現れている。 この戦略は戦術的にも重要な結果をもたらした。フランス艦は、主に敵の帆装を攻撃して操作不能に陥らせ、それに乗じて戦場から逃れ、任務を継続する策を取った。そのためフランス艦は風下に位置し、風上舷の砲で攻撃したが、その場合には砲が上向きになるので、敵の帆装には損傷を与えても、船体や人員にはわずかな損害しか与えることができなかった。それとは対照的に、イギリスやオランダの軍艦は下向きの砲で敵の船体を攻撃したので、木材の破片などにより、敵砲手を多く死傷させることとなった。この戦術の違いが、イギリスとフランスの乗組員の被害の差を説明している。フランスは死傷者が多かっただけでなく、そのうちの死者の比率も高かった。
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