フランス渡航へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 13:53 UTC 版)
1934年に大学を卒業すると、湯浅は東京文理科大学の副手となった。また、1935年に東京女子大学講師、1937年には東京女子高等師範学校の助教授となった。しかし湯浅は、自分は教職には向いていないと感じた。また、研究面においても、当時は女性の地位が低く、思うような研究ができなかった。さらに研究分野である分光学の将来性に対しても、行き詰まりを感じていた。 そのような状況の中、湯浅は大学の図書室でフレデリック・ジョリオ=キュリー、イレーヌ・ジョリオ=キュリー夫妻の人工放射能に関する論文を読み、大きな感銘を受けた。そして、フランスで夫妻のもとで研究を行いたいと心に決めた。当時フランス外務省では、年に数名の留学生を2年間フランスに招き入れる制度があったため、湯浅はこれに応募した。1938年に受けた試験では、筆記では合格したが、口頭試験で落選した。しかし翌年の試験ではトップの成績で合格を果たし、フランス文学者の片岡美智と共に、この制度による初の女性のフランス留学生に選ばれた。 ところが、フランス渡航の間近になって第二次世界大戦が勃発、さらには父親が胃がんの診断を受け、余命1年を宣告された。そのため一時は渡航を諦めたが、自分の病名を知らされていない父は、「たとえ思うような研究生活ができなくても、外国へ行って外から自国をみることは見解をひろめることになるから」と留学を勧めた。そのため、湯浅はフランスへ渡ることを決心した。
※この「フランス渡航へ」の解説は、「湯浅年子」の解説の一部です。
「フランス渡航へ」を含む「湯浅年子」の記事については、「湯浅年子」の概要を参照ください。
- フランス渡航へのページへのリンク