フランス海軍との協同作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 06:10 UTC 版)
「大陸海軍」の記事における「フランス海軍との協同作戦」の解説
フランスとアメリカが同盟を結ぶまでは、フランスの王党派政府がアメリカ独立戦争に対して表面上の中立を守っていた。しかし中立は表の顔であり、公然とアメリカの船を保護したり物資を供給したりしていた。 アメリカの外交官ベンジャミン・フランクリンとサイラス・ディーンの努力で、大陸海軍はフランス海軍と恒久的な連帯を取ることができるようになった。フランクリンと志を同じくする同士達によって、大陸海軍の士官達は軍用に供するその後の艦船の調査と購入の権限を与えられるようになった。 独立戦争の初期には、ランバート・ウィックス船長やギュスタブ・コニンガム船長がフランスの港を拠点に活動し、商船を襲っていた。フランスは中立を守るためにその艦船ドルフィン(en:USS Dolphin (1777))とサプライズ(en:USS Surprise (1777))を拘束した。しかし、1778年の公式な同盟開始に伴い、フランスの港は大陸海軍の艦船にたいして開かれることになった。 フランスから出撃した大陸海軍の中でも特に有名なのがジョン・ポール・ジョーンズ船長である。ジョーンズはレンジャー(en:USS Ranger (1777))に乗り組み、イギリス商船を餌食にしていたが、今日からみても高い指揮能力を持っていたと見られる。フランスはジョーンズに商船デュック・ド・デュラスを貸し与え、ジョーンズが艤装を行ってレンジャーよりも戦闘能力の高いボノム・リシャール(en:USS Bonhomme Richard (1777))を造り上げた。1779年8月、ジョーンズはアメリカとフランスの双方から船隊指揮を任された。その任務はイギリス商船を襲うことだけに留まらず、イギリスの防御が薄い西方の地に1,500名のフランス正規軍を揚陸させることだった。大望のあるジョーンズにとって不幸なことに、フランスは侵略軍に関する約束を取りやめたが、彼が船隊を率いることについては引き続き認めた。アイルランドを時計方向に回り、イギリス本土の東海岸に回ってジョーンズの船隊は多くの商船を捕らえた。フランス海軍の指揮官ランデーは、フランス艦船の統制を行うために遠征を企画しており、しばしばジョーンズの活動から勝手に離れたり合流したりした。 1779年9月23日、ジョーンズの船隊はフラムボロ岬沖でイギリス海軍のマンオブウォーであるカウンテス・オブ・スカボロー(en:HMS Countess of Scarborough)およびセラピス(en:HMS Serapis (1779))と遭遇した。唯一の大陸海軍フリゲート艦であるボノム・リシャールがセラピスと交戦した。特に激しい戦闘中にイギリスの船長が大声で、ボノム・リシャールがその旗を降ろすかを尋ねた。ジョーンズは叫んだ「まだ戦いは始まっていないぞ。」セラピスに船を寄せて、ジョーンズに率いられたボノム・リシャールの乗り組員が乗り移り、セラピスを捕獲した。同様にフランス軍のフリゲート艦パラがカウンテス・オブ・スカボローを捕獲した。2日後、ボノム・リシャールは戦闘から受けた損傷が激しく沈没した。自国の領海で2隻の軍船を捕まえられたイギリス海軍の無残な敗北として、この戦闘は歴史に残った。 同様な経過でフランスは大陸海軍にコルベット艦アリエル(en:USS Ariel (1777))を貸し与えた。また大陸海軍の活動のために造った戦列艦アメリカ(大砲数74、en:USS America (1782))は、フランスがアメリカ独立戦争中に失ったル・マニフィクの代償として、1782年9月3日にフランスに譲られた。
※この「フランス海軍との協同作戦」の解説は、「大陸海軍」の解説の一部です。
「フランス海軍との協同作戦」を含む「大陸海軍」の記事については、「大陸海軍」の概要を参照ください。
- フランス海軍との協同作戦のページへのリンク