軍艦天城調査後の「竹島外一島」
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「竹島外一島」の記事における「軍艦天城調査後の「竹島外一島」」の解説
軍艦天城の調査前の状況について、外務省の北澤正誠は1881年(明治14年)にまとめた竹島考証において「於是竹島松島一島両名或ハ別ニ二島アルノ説紛紜決セス」(この竹島松島において、一島二名あるいは別に二島ある説が紛紜として決まっていない)と記しており、戦艦天城の調査以前は諸説が乱れていたことがわかる。 1878年、1880年の戦艦天城の調査の結果、当時の日本の近代的地図の松島(Dagelet島)が鬱陵島であることがわかり、竹島は鬱陵島の北東部にあるBoussole Rock(竹嶼)であると報告された。 これにより北沢正誠は「今日ノ松島ハ即チ元禄十二年稱スル所ノ竹島ニシテ、古來我版圖外ノ地タルヤ知ルヘシ」(今日の松島は、すなわち元禄十二年に呼称していた竹島であって、古来我々の版図外の地であることを認識するように)として、この当時松島とされている島が鬱陵島であると結論づける。この認識は「内務権大書記官西村捨三の外務省書記官宛照会文書」にも出てくるほか、当時の内務省や外務省の見解にも反映されるようになる。 1881年11月2日の「明治14年朝鮮蔚陵島へ入住の和我人民を撤諦せしめ爾後航行を禁する旨XX国政府へ照会す。」では、「別冊竹島所属考に明瞭なるか如く我の所謂竹島一名松島なるもの」としており、竹島と松島が同じ島であるとしている。 1881年11月29日付、外務省記録8324「内務権大書記官西村捨三の外務省書記官宛照会」では、別紙甲号に「日本海内竹島外一嶋地籍編纂方伺」の写しがあり、この文字の横に、(外一島ハ松島ナリ)と新たに追記される。 この文書は、島根県からの『日本海内松島開墾之儀ニ付伺』の処理に関するもので、乙号としてその文書が添付されていた。この乙号は鬱陵島のことを松島と表記しており、この内務省からの照会に対して、外務権大書記官光妙寺三郎の内務権大書記官西村捨三宛て返答文書 明治十四年十一月三十日起案文 「公第二六五一号」 では「朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀」として、「竹島外一島」が鬱陵島一島だけであることを示している。 『明治十六年 公文録 外務省 三月四月 全』公第二七二号、1882年(明治15年)02月16日付、外務卿井上馨の蔚陵島(鬱陵島)での日本人の活動に関しての上申書において、「我邦人朝鮮国所属蔚陵島[我邦人竹島又は松島と唱ふ]へ渡航し…」としており、鬱陵島を日本人が竹島または松島と呼んでいることを記している。 1883年09月の、「蔚陵島ニ邦人渡航禁止審査決議ノ件並ニ決済」では、「北緯37度30分東経130度49分の洋中に位する一の島嶼即ち日本称竹島或は松島朝鮮称蔚陵島の儀は、…(中略)…別冊竹島版図所蔵考記載の通りなり」として、朝鮮鬱陵島が竹島或いは松島と呼ばれていることを緯度と経度入りで説明している。 1900年06月12日付、在釜山領事官補赤塚正輔 の「鬱陵島調査状況 山林調査状況報告の件」においても、「鬱陵島ハ韓國江原道ニ屬シタル島嶼ニシテ松島又ハ竹島ト稱シ(東經百三十度八分二厘北緯三十七度五分)」として、鬱陵島が竹島或いは松島と呼ばれていることを緯度と経度入りで説明している。 太政官指令作成時には名称が判らなかったため「竹島外一嶋」とされた島が、戦艦天城の調査とその後のこれら外務省と内務省のやり取りから、Dagelet島つまり鬱陵島および竹嶼であると認識されるに至ったことがわかる。 島根県の竹島資料室の研究では、軍艦「天城」の調査後も日本では引き続き鬱陵島を松島としたため、それまで架空の位置に描かれていた「竹島」の名を朝鮮で于山島と呼ばれていた現在の竹嶼に当てはめたとし、太政官指令の際、実際に版図外としたのは鬱陵島だけであるとしている。 1905年に日本は現在の竹島を「竹島」と名付け島根県へ正式に編入している。
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