海神社 (西ノ島町)とは? わかりやすく解説

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海神社 (西ノ島町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/16 00:07 UTC 版)

海神社

海神社・拝殿(西ノ島)
所在地 島根県隠岐郡西ノ島町別府409
位置 北緯36度06分51秒 東経133度02分45.9秒 / 北緯36.11417度 東経133.046083度 / 36.11417; 133.046083
主祭神 不詳
社格 式内小社・旧村社
創建 不明
本殿の様式 隠岐造銅板葺
例祭 7月21日
主な神事 神幸祭(船渡御祭)(隔年7月21・22日)
御蒸祭(秋季大祭)(10月21日)
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海神社(かいじんじゃ[1])は、島根県隠岐郡西ノ島町別府に鎮座する神社別府港の東方、黒木御所跡の北方に鎮座する旧村社で『延喜式神名帳』に載せる「海神社 二座」に比定されている(式内社論社)。

祭神

不詳。

当神社の文献上の初見は元禄16年(1703年)の『島前村々神名記』で[2]、そこに「別府村 六社大明神」と載せてこれを式内「海神社」に比定し、「志賀三社一座、住吉三社一座」を祀るとしている。『式神名帳』の2座を綿津見三神住吉三神に充て、それぞれ3の計6柱を祀るとする訳で、明治2年(1869年)の『島前旧社取調帳』にも9程の神像が6躯あると報告されている。また、明治初めの当神社神主の報告には、明治まで祭神を「ワタツミノカミノヤシロフタクラ」と唱えて来たともいうが[3]、明治5年に式内「海神社」と定められて以来、「祭神不詳」とされている。なお、上記『旧社取調帳』には神像6躯とは別に紐鏡が2面あると報告されているので、当神社が確かに式内社であればこの紐鏡2面が本来の「海神社 二座」の御霊代であった可能性があり、古唱の「ワタツミノカミノヤシロフタクラ」は「少童神、二座」を意味するもので、本来の祭神は少童神であった可能性が指摘されている[4]

由緒

本殿の背後に古墳があり、境内隣接地からは黒曜石製石鏃等が出土していることから、古くからの社地であったらしく、事実式内社であるとすれば先住の海人が祀ったものとも思われ[5]、また、国内神名帳である『隠州神名帳』に「従三位上 海原明神」と「従四位上 云海彦明神」が見えるので、このいずれかである可能性もあるが[6]、近世以前の由緒、沿革は不詳とするほかなく、式内社の比定にも異説がある(後述)。

近世になって六社大明神と称されたことが確認でき、上述『島前村々神名記』以降式内社に比定された。明治5年10月に社名を「海神社」に改めて村社に列し、以後鎮座地別府の氏神として崇められている。

式内社比定の異説

雲州家本『延喜式』の校異に[7]、知夫郡「由良比女神社」に「元名和多須神」という注記があるが、『隠州神名帳』知夫郡には「由良姫大明神」とは別に「和太酒明神」が載るので、これは次行の「海神社」の注記が紛れ込んだものであろうと推測し(『式神名帳』では由良比女神社の隣行に海神社が記載されている)、これを承けて『大日本史神祇志』や伴信友神名帳考証』は、知夫村の島津島が古く「渡島」と称されており[8]、その西端には渡神社があるので、これが「和太酒明神」であり式内海神社であろうと説いている。

祭祀

神事

例祭(7月21日)
明治2年の『旧社取調帳』には隔年の6月20日から21日にかけて「大祭」が行われるとあるが、これは船渡御祭のことで、太陽暦施行後は毎年7月21日に例祭を、隔年で21・22の両日にかけて船渡御祭が斎行され、船渡御の行われる年には、21日の夜に隠岐島前神楽が奉納される。なお、この船渡御祭の起源は不明であるが、近世になって断絶したものを弘化4年(1847年)に再興したとの記録が残されている。
御蒸祭(10月21日)
新穀12を炊いて12膳に分け、神前に献じる。かつては9月29日に小祭として行われていたが(『旧社取調帳』)、太陽暦施行後は現行日に秋季大祭と称して斎行している。

神職

代々宇野氏が世襲して来た。宇野氏は本姓藤原氏で、天正頃(16世紀末)に豊臣秀吉に追われて隠岐へ来島、寛文年中(17世紀後葉)から奉仕するようになったと伝えるが(『旧社取調帳』)、明治初年に職を離れた。

社殿

本殿は梁間1間桁行2間の隠岐造銅板葺で慶応3年(1867年)の造替。幣殿を経て拝殿に連絡する。幣殿、拝殿ともに銅板葺。

他に御輿庫などがある。

境内社

伊勢社、稲荷社

脚注

  1. ^ 西ノ島町観光協会、「便利な情報 まちあるきマップ 別府港・美田尻。
  2. ^ 島前の神社とその祭神を記したもの。
  3. ^ 宇野忍古彦(当時の神主)「隠岐国知夫郡別府村式内海神社二座取調書」。
  4. ^ 『式内社調査報告』。
  5. ^ 松浦康麿、「西ノ島の神社」
  6. ^ 松浦康麿は前者に(「西ノ島の神社」)、鈴鹿連胤は後者に比定する(『神社覈録』)。
  7. ^ 雲州家本は松江藩主松平斉恒斉貴2代に亘って校訂・板行されたもの。
  8. ^ 隠州視聴合紀』巻4、島前記知夫湊并山条。

参考文献

外部リンク




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