竹島と鬱稜島の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 21:40 UTC 版)
「隠州視聴合紀」は隠岐国の地誌であるが、この地誌の国代記には現在領土問題となっている竹島と鬱稜島の記述も見られる。「隠州視聴合紀」の書かれる約50年前の1618年(元和4年)伯耆米子(現・鳥取県米子市)の商人、大谷、村川両家が江戸幕府より竹島鬱陵島渡海免許を受けており、1698年まで毎年交代で鬱稜島を開発していたため、この地誌にも竹島と鬱稜島に関する以下の記述がある。(当時、鬱稜島は「竹島」、現在の竹島は「松島」と呼ばれていた) (隠岐から)亥の方四十余里にして、松島あり。周り一里程にして生木なき岩山といふ。又酉の方七十余里にして竹島あり。古より是を磯竹島といふ。竹木繁茂して、大島の由、是より朝鮮を望めば、隠州より雲州を見るより近し。 現在の韓国は、この地誌の下記の記述を取り上げ、「此州(この州)」は隠州であり、日本の領土は隠岐までであり現在の竹島は日本領ではないとしている。しかし「隠州視聴合紀」の書かれた26年後の1693年には、鬱陵島へ来ていた朝鮮の漁民安龍福を連行したことを発端に、日本と朝鮮の間で鬱陵島の領有をめぐる外交交渉が始まっている(竹島一件)ことから、「隠州視聴合紀」が書かれた1667年には幕府の鬱陵島に対する領有認識があったと見られる。従って日本では、この記述の二島は無人島なので、ただ人の住んでいる隠岐までを日本の範囲としているだけで、領土を意味しているわけではないと解釈している。また、朝鮮半島から見えるのは鬱陵島だけであり、この文では雲州から見える隠州を対比させており、この対比では経由地である小島の現在の竹島は考慮されていない。 原文 *当時の日本では鬱陵島を「竹島」、現在の竹島を「松島」と呼んでいた。 戍亥間行二日一夜有松島 又一日程有竹島「俗言磯竹島多竹魚海鹿 按神書所謂五十猛歟」 此二島無人之地 見高麗如雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣 翻訳 (隠岐より)北西へ二日行くと松島(現在の竹島)がある。又一日程で竹島(鬱陵島)がある「俗に磯竹島と言って、竹・魚・アシカが多い。(アシカは)神書を案ずるにいわゆる五十猛だろうか。」この二島は無人の地で、高麗から見えるのは雲州から隠州を望むようなものだ。すなわち日本の北西の地は、この州をもって限りとする。
※この「竹島と鬱稜島の記述」の解説は、「隠州視聴合紀」の解説の一部です。
「竹島と鬱稜島の記述」を含む「隠州視聴合紀」の記事については、「隠州視聴合紀」の概要を参照ください。
- 竹島と鬱稜島の記述のページへのリンク