竹島(鬱陵島)での村川家との遭遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 13:52 UTC 版)
「安龍福」の記事における「竹島(鬱陵島)での村川家との遭遇」の解説
幕府より竹島(鬱陵島)を拝領していた米子の村川家と大谷家は、毎年交代で開発に出向いていたが、『竹島考』や大谷九右衛門の『竹嶋渡海由来記抜書控』によると、1692年(元禄5年)3月、村川家の船が竹島(鬱陵島)に行った時、島に多くの鮑が干されているのを見つけた。また置いていた漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡もあった。そうこうするうち、鮑漁をしていた朝鮮人に遭遇する。この朝鮮人の中に日本語が分かる者がおり、尋ねてみると、「竹島(鬱陵島)より北の島へ国主用の鮑取りに来たが難風に遭ってこの島に漂着した。この島にも鮑がいるので取った。」と説明している。日本語を話すことからこの人物が翌年に竹島(鬱陵島)から日本へ連行された安龍福であることはほぼ間違いない。安龍福は竹島(鬱陵島)の北の島から来たと言っているが竹島(鬱陵島)の北に島はなく、彼の言う島は当時朝鮮で発行されていた朝鮮八道古今総図の北に記されている実在しない于山島を指していると見られる。彼の発言は竹島(鬱陵島)での鮑漁を隠す為の詭弁であった可能性が高い。村川家の船頭は、この島は日本の領土なので二度と来ないよう申しつけ、権益が荒らされた証拠として、朝鮮人が作った干し鮑や味噌麹などを持って帰った。
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