竹島(鬱陵島)での朝鮮人との遭遇に始まる領有権の交渉
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鳥取県の大谷家に伝わる「竹嶋渡海由来記 抜書控」によると、1618年(元和4年)伯耆米子(現・鳥取県米子市)の商人、大谷、村川両家が幕府より竹島鬱陵島渡海免許を受けていた。鳥取藩池田家は将軍家の親戚であったため、将軍家の葵の紋を使用できた。そのため葵の紋を打ち出した船印をたて、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていた。 大谷甚吉・村川市兵衛らは交代で毎年同島に赴いて、鮑・アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行い、鮑を幕府に献上していた。松島は竹島(鬱陵島)への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から松島へも交代で渡海することを承認されており、鳥取藩も毎年の渡海にあたっては、米や鉄砲の貸付をしていた。(名古屋大学教授の池内敏は、両家は1620年代に受けたと見られる竹島渡海免許を1年に一度ずつ更新しなければならないものであるとし、始めのものをそのまま使用した不法な竹島への渡海を約70年も続けていたとしている。)
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