奥浄瑠璃版
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御伽草子『鈴鹿の草子』、室町時代物語『田村の草子』、古浄瑠璃『坂上田村丸誕生記』などと同じ系統に属する奥浄瑠璃『田村三代記』にも登場する。ただし、『鈴鹿の草子』に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤の描写は省かれ、鬼神退治の活劇を主とする内容となっている。 鈴鹿御前の名は最初は「立烏帽子」と呼ばれる天竺より鈴鹿山に降臨した第六天魔王の娘とするが、田村将軍との婚姻後は「鈴鹿御前」と呼ばれる。日本を魔国とするための同盟者を求めて奥州の大嶽丸に求婚するが返事はなく、やがて田村将軍と夫婦となる。その後、共に高丸や大嶽丸を退治する話は概ね共通している。運命により25歳で田村将軍と娘に三明の剣を託して亡くなるも、田村将軍が閻魔大王へ訴えて生き返った。103歳で大往生を遂げた鈴鹿御前の遺体は白蛇が迎えに来て紫雲と共に運ばれて鈴鹿山にて清瀧権現として現れた。
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奥浄瑠璃版
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『田村三代記』の冒頭では都の空に妖星(悪星)が登場すると、帝に呼び出された天文博士の安倍晴明(渡辺本)や加茂康則(鈴木本)と叡山座主(青野本)が祈祷して、妖星が瑞兆と占われると星が砕けて童子が誕生するという英雄物語にふさわしい始まりとなる。『保元物語』など、古くから突如として現れる客星について天変地異の前兆として記されている。利春は支配体制を脅かす存在として星砕の段で劇的に登場した。 星が砕けて童子が誕生するというモチーフには深い意味があることから「星砕」と別称されている。渡辺本、青野本、鈴木本などで大星が落ちてきた場所こそ異なるものの、総合すると北斗妙見信仰を背景に剣と鏑矢を持って武神の誕生を描いていると解釈される。
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奥浄瑠璃版
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奥浄瑠璃『田村三代記』では、立烏帽子討伐に向かった田村丸利仁将軍が先祖代々伝わるそはや丸を投げると立烏帽子は大通連を投げ返した。大通連とそはや丸は中空で渡り合い、そはや丸が鳥となると大通連は鷹となって追い出した。そはや丸が火焔となって吹きかかると大通連は水となってそれを消した。 大通連と小通連は文殊師理菩薩に打たせた通力自在の名剣とされ、顕明連は近江の水海の蛇の尾より取りし剣で別名を双無き剣とも水海剣ともいう。朝日に向かって虚空を三度振れば三千大千世界を目の前に見て通すことが出来るという。立烏帽子が亡くなるときに大通連と小通連は内裏に納めて内侍所の神事宝剣として日本の宝とすること、剣明剣は娘の正林に贈ることを遺言した。 『田村三代記』の末尾には屋代本『平家物語』や『源平盛衰記』の「剱の巻」に相当する部分が挿入される。古態を残す渡辺本『田村三代記』の「つるぎ譚」によると、立烏帽子(鈴鹿御前)の形見として田村に託された大通連・小通連が田村丸に暇乞いをして天に登り、3つの黒金となったものを箱根の小鍛冶に打たせたものがあざ丸・しし丸・友切丸の3つの剣であり、そはやの剱は毘沙門堂に納め置いた。古年刀である友切丸は八幡殿に申し下ろして源氏の宝となる。
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奥浄瑠璃版
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江戸時代の東北地方で語られた『田村三代記』では、室町時代の『田村の草子』など御伽草子系にはない田村利光による「御狩」が描かれる。『田村三代記』は第一群、第二群、第三群に分類され第一群は悪路王捜索の山狩りが主体となり、中世的説話を色濃く伝え、御伽草子からの古態を残す写本群となる。第二群では第一群にはない「将軍巻狩の段」や「塩竈神社の縁起」などが挿入され、七ツ森での壮大な巻狩が描かれる。どちらも御狩を通して「悪玉との契り」がもたらされる点は共通する。 第二群の御狩には歴史的出来事が反映された。天正19年(1591年)正月9日に奥州仕置を成し遂げた豊臣秀次の軍勢が帰途のおり、七ツ森で御狩をおこなったと『伊達成実記』に記され、近世東北の史実や江戸時代初期の文芸趣向を反映していることがわかる。また慶安3年(1650年)に伊達忠宗が片倉重長と行った蔵王山の巻狩で活躍した片倉良種の姿は、『田村三代記』の御狩で活躍する霞源太を彷彿とさせる。良種の出自は田村丸伝承を携えた田村氏出身である。
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奥浄瑠璃版
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奥浄瑠璃『田村三代記』のあらすじは、室町時代の京都で生まれた『田村の草子』が江戸時代の東北地方に伝わると、これをベースにして近世の伊達藩を中心に奥浄瑠璃として拡大・再生された内容となる。「達谷窟が岩屋に御堂を建立して毘沙門天を納めた」など、『吾妻鑑』をはじめ、古くから東北地方で知られた坂上田村麻呂伝説に準えた内容がふんだんに取り入れられ、東北地方に即した改変がなされているのが特徴である。
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奥浄瑠璃版
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田村将軍は契りを結んだ立烏帽子の託宣通り、帝に呼ばれて参内すると男山八幡の神勅により明石の高丸退治をするよう宣旨が下った。2万余騎の軍勢を率いて近江国蒲生原に向かい名乗りを上げると、岩屋の戸から高丸が現れて3日3夜の戦いとなり、田村の軍勢も悉く討たれ、多くの眷属を討ち取られた高丸は主従8騎となり常陸国鹿島に引き退いた。 常陸国鹿島まで追いかけてきた田村将軍と大乱戦となり、高丸は堪えきれずに浪の上に立ち「大嶽丸が討って出る時は我も心を合わせて日本を覆さん」と叫んで海へと飛び込み、唐と日本の汐境・築羅が沖へと撤退して城郭を構えた。 行方を見失ない、軍勢も200余騎となった田村将軍は霞野忠太の進言により都へ帰ることにした。その途中、伊勢国山田の里で眠っていると立烏帽子が現れ、高丸は築羅が沖の大りんが窟にいると教えられ、討ち取らせるのでお供をすると告げられた。軍勢を都に帰した将軍は立烏帽子と2人で光輪という神通の車に乗り築羅が沖に向かった。城郭に着くと立烏帽子が天を招き、音楽が流れ、12の星が天降り、稚児の舞がはじまった。84歳になる高丸の末娘の鬼が舞を見たがるも、高丸は我らを引き出すための幻術であると諭す。しかし親馬鹿から岩屋の戸を少し開けると娘鬼や太郎鬼神は悦んで閲覧し、そのうち高丸も見上げると、立烏帽子が田村将軍に高丸の眼を的に一矢遊ばされよと鏑矢を差し出した。将軍が放った鏑矢は高丸の眼に命中し、そのまま後ろに抜けて太郎鬼神の喉笛をも射た。高丸親子が崩れるように倒れ臥せると、残る鬼神は火焔を吹き出し怒り狂う。2人は三明の剣とそはやの剣を投げ掛けると、剣は虚空を切り回り、鬼神は残らず討たれた。高丸の死骸を海中から引き上げ、備前国に高き塚を築いて多くの僧侶に供養させるも、その上に御堂を建立して吉備津宮大明神を勧請した。
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