平戸藩
平戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 15:08 UTC 版)
文政12年(1829年)平戸藩士小関三七の子として生まれた。幼名は治作、後に与右衛門。部屋住みとして藩主の近習を務めた後、松浦静山の下で小納戸頭、勘定奉行、大坂留守居等を歴任した。 文久3年(1863年)の攘夷令では浅山純尹と共に平戸瀬戸の砲台築造に従事し、大村藩・佐賀藩の計画にも関わった。 慶応3年(1867年)の大政奉還時には大坂留守居を務めており、先に京都入りして藩主を迎えた。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの時には京都にあり、暗峠・奈良に出兵した諸隊の慰労使を務めた。2月明治天皇が二条城に行幸した際、大砲隊を率いて藩主に同行した。大坂留守居に戻った後、4月公議人に任じられ、10月上京し、会津藩・仙台藩等の処遇についての諮問に回答した。
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平戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:57 UTC 版)
素行が平戸藩主松浦鎮信と親しかった縁で、庶子の山鹿万助(高基)が平戸藩に仕えた(平戸山鹿氏) 弟の山鹿平馬も松浦家に召し抱えられ、後に家老となっている。 上杉家の千坂高房が山鹿流の達人であり、赤穂浪士と頭脳戦を展開する創作があるが、千坂も松浦重信も赤穂事件との関わりはない。ただ、『山鹿語類』には上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事が記されている。平戸藩の記録は歌舞伎の創作とは逆に吉良方寄りになっている。 平戸山鹿氏および松浦家は、山鹿素行の『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあるを論拠として「大石の輩は公儀の免許も得ず、徒党を組み火事と偽り闇討ちにて押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。山鹿光世もこれに倣う。
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平戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:35 UTC 版)
肥前国平戸藩では素行の庶子の山鹿高基が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来、また弟の山鹿平馬(義昌)が家老に採用されている。山鹿流に学んだ平戸藩ならびに松浦家は、『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあるを論拠として「公儀の免許を得ず、徒党を組み飛び道具を以て押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。(ただし、平戸藩邸(下屋敷)は本所にあり旧吉良邸に近く、また松浦氏は柳の間で諸大名に作法・礼儀の指南をしており、総じて吉良寄りである)。
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