千坂氏
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千坂氏(ちさかし、ちざかし)は、上杉氏の重臣で四家老家の一つ。江戸時代の家格は侍組分領家。
- ^ 「上杉家御年譜22」(上杉温故会 1986.1 )P140-141に明治36年4月5日付上杉茂憲の千坂高雅宛の保証書冒頭文に「右(千坂高雅)祖先ハ同族ニシテ其中祖景長(千坂景長)ハ越後村松国ノ城主ニ有之」との記載あり。
- ^ 「明治の同郷人」P47-48 松野良寅 米沢・遠藤書店 1986.2『千坂高雅は・・、「千坂有りて上杉有り、上杉有りて千坂有り。千坂は唯是社稷を重んず。」という家電之葴法(しんぽう)を忠実に守る律儀さもあった。』
- ^ 【続群書類聚 第六輯下「上杉系図」上杉朝房 p. 70「父(上杉憲藤)打討時、家人石川覚道抱之、于時幸松(上杉朝房)四歳、幸若(上杉朝宗)二歳、家人千坂子二歳、和久子四歳相従之、共於鎌倉成人」】
- ^ 「上杉家御年譜23(御家中諸士略系譜)」に景長から高雅までの系図あり
- ^ 「千坂一族」P7-20日本家系家紋研究所 1986
- ^ 武蔵守護代「千坂越前守」宛関東管領上杉朝宗書状(覚園寺文書)応永4(1397).7.10、20及び12.3付文書(黄梅院文書)
- ^ 武蔵守護代「千坂越前入道」宛関東管領上杉朝宗書状(鶴岡神主家伝文書、上杉家文書)応永6(1399).11.12
- ^ 「千葉県の歴史通史編 中世(県史シリーズ3)」上総守護犬懸上杉氏P511(上杉憲藤が戦死したとき、幼い兄弟が石川覚道に抱えられて養育したことが上杉系図に記載されているが、千坂の子息は朝宗ともに二歳だったことになる。 確証はないが、朝宗の管領就任と同時に武蔵守護代に任命された千坂越前守こそ、この時の少年かもしれない。)
- ^ 上総守護代「千坂弥三郎」宛 武兵庫正忻奉書案 (鶴岡事情日記)応永4(1397)【戸田市史 資料編1.原始・古代・中世】
- ^ 上総守護代「千坂信高」 上総馬野郡富益郷分の段別銭の請取状。【千葉県の歴史 通史編 中世 県史シリーズ p. 513】 応永13(1406).10
- ^ 千坂駿河守【「関東管領上杉氏」黒田基樹編著-「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明 p. 128-130】
- ^ 「(乱後の動向について)犬懸上杉氏被官については、関係文書の残存量が希少でその詳細をつかみことがきわめて困難である。」【栃木県立文書館「研究紀要」第19号「上杉禅秀の乱後の犬懸上杉氏被官と禅秀与党」杉山一弥 H27.3.27】
- ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』に1428年〜1498年の越後における千坂氏書状(千坂信高 p. 176-7,413、千坂高信 p. 253、千坂定高 p. 282,263-4、千坂実高 p. 181,413-4、千坂能高 p. 304
- ^ 「千坂氏が越後の上杉氏家臣として現れることは、あるいは示唆的かもしれない。実証は難しいが、四散した犬懸家の家臣のある部分は上杉一門の被官として抱えられたのではあるまいか。」【「関東管領上杉氏」黒田基樹編著-「犬懸上杉氏の政治的位置」山田邦明 p.150】
- ^ 【蔭涼軒日録 長享二年(1488年)七月十日条】
- ^ 『新潟県史資料編4中世2(文書編2)』越後長尾氏被官連署契状 pp. 84-85
- ^ 千坂景親の項に「父ハ千坂藤右衛門景長ト伝本国関東ニテ 上杉家代々従属四家老長尾石川千坂斎藤等也・・」
- ^ http://www.city.yonezawa.yamagata.jp/1806.html 「米沢市HP」城下町ぶらり歴史探訪・那須与一供養塔
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