上杉茂憲とは? わかりやすく解説

上杉茂憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 04:45 UTC 版)

上杉茂憲
1913年10月の上杉茂憲伯
生年月日 天保15年2月28日1844年4月15日
没年月日 (1919-04-18) 1919年4月18日(75歳没)
前職 出羽米沢藩藩主
称号 正二位伯爵錦鶏間祗候
配偶者 最初の妻:松平義建女)
2番目の妻:(竹俣権平養女)
3番目の妻:松平乗喬女)
4番目の妻:(伊藤清久女)
子女 上杉憲章、上杉勝憲、大給近憲 ほか
親族 大給近孝
第2代沖縄県令
在任期間 1881年5月18日 - 1883年4月22日
在任期間 1883年4月24日 - 1890年10月20日
当選回数 2
在任期間 1890年7月10日 - 1904年7月10日
在任期間 明治2年(1869年)6月18日 - 明治4年(1871年)7月14日[1]
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上杉 茂憲(うえすぎ もちのり)は、江戸末期の大名明治から大正期の日本政治家華族。位階勲等爵位は、正二位勲二等伯爵

山内上杉家29代当主で、出羽国米沢藩13代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事、沖縄県令貴族院伯爵議員、侍従、錦鶏間祗候などを歴任した。

経歴

弘化元年(1844年)、第12代藩主・上杉斉憲の長男として米沢城で生まれた[2]。母は於盤。幼名は龍千代[2]。はじめ憲章といった[3]

弘化3年(1846年)、嗣子として指名された[2]。傳役は樋口伊織や松本彦左衛門が勤める。万延元年(1860年)10月23日、14代将軍徳川家茂に面謁し、家茂の偏諱を与えられて茂憲を名乗った[2][3]。このとき侍従に任じられた[3]

慶応4年/明治元年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると父と共に奥羽越列藩同盟に与して新政府軍と戦うものの敗れて降伏した。このとき、父が処罰として藩主の地位を退くことを余儀なくされたため、同年12月18日に家督を継いだ。また、4万石の減封となった[2]

藩の実権は父が掌握しており、茂憲には活躍の場がほとんど無かった。江戸や京都から長文の報告書を送り、これに斉憲が朱筆の書き込みを入れて返している。このような形で父から政治教育を受けた。

明治2年(1869年)、版籍奉還により米沢藩知事となる[2]。旧藩士らに旧藩の囲金や上杉家の備金などから10万両余を分与[注 1]。明治4年(1871年)の廃藩置県により東京に移住した[2]。同5年(1872年)から2年間、イギリスに留学した[2]。その後、宮内省に勤務した[2]

明治14年(1881年)5月には沖縄県令となる。

沖縄県令への赴任に当たって書記官として補佐したのは旧臣の池田成章[注 2]で、在任中の施策には成章の具申の影響も大きい。県の現況を把握するため、当時の交通事情の中ほぼ全島を視察し、直に住民から実状を聞きとっている[注 3]。視察時の記録をまとめた『上杉県令巡回日誌』[5]は、当時の沖縄全県の世情・風俗を知る上での重要な史料である。産業発展には人材育成が要として、明治15年(1882年)に謝花昇太田朝敷ら5人の第1回県費留学生を東京に留学させた。各学校への私費での奨学金や文具の寄付も数多い。沖縄県は旧王族、士族層の不満を抑える目的で琉球時代からの旧慣温存[6]が政府方針となっていた[注 4] [要出典]

本島視察で、士族である地方役人の怠慢と恣意的な税徴収で私腹を肥やす姿を目の当たりにして、これを打破するため上京し上申書を提出した[要出典]。政府方針に反し急進的過ぎるとして黙殺されたが、その熱意が政府高官の一部を動かし、尾崎三良が政府視察官として派遣される。東京からの帰沖時には、沖縄のために永住も覚悟して妻子を伴っていた。尾崎は、茂憲の離島視察に同行した後に帰京して報告する[7]が、それは「上杉県令が民心を惑わしている」というものだった。こうして在職2年で県令を解任される。

離任時には1500円[注 5][要出典]の私財を奨学資金として県に提供した。また、沖縄(琉球)で生まれた四女を琉と名づけている[2]

池田成章の回想録『過越方の記』[8]によると、茂憲の沖縄県令内示に当って成章は岩倉具視邸に呼び出された。「廟議で上杉氏に決定したが、名家子弟で実務に慣熟しているとは思えず、一人で任せることは出来ない」と、成章の補佐を条件として認可すること、それは成章の意志に任せると言われたという。ここで、「大命が下されれば謹んで奉戴する」と答えている。維新の激動を渡りきった政府要人は、旧大名のほとんどを無能と見なしていたということでもある。それでも旧諸侯を県令に選んだのは、門地を重んじる沖縄県民の民心をふまえ、名家の権威を利用する飾りとしてであった。また、この場合のように、大名家にいまだ仕える旧家臣達の能力をあてにもしている。

上杉の県令としての態度は精励そのもので、池田も敬服し、沖縄県政の改革に熱意を傾ける。上杉は地方視察には熱心に質問を続け、直接住民の家を訪ねて聞き取りを行い、休日も休まず那覇裁判所の法律刑法勉強会に参加した。また、鍋島直彬前県令には県政の教えを乞い、県令離任後も在職中の県政報告書を送っている[要出典]。縁戚の浅野長勲から、開拓使官有物払下げ事件で荒れる政局の収拾に助力を求められるなど、旧諸侯からの人望が厚かった[要出典]

明治の政治家に求められた個人的な実務能力の持ち主ではなく、その徳と見識で、部下が全力を発揮できる環境を整える、江戸時代的名君であったといえる。

明治16年(1883年)、元老院議官となる[9][2]。同17年(1884年)、華族令施行により伯爵となった[10][2]。明治23年(1890年)元老院廃止[11]、10月20日、錦鶏間祗候となる[12][注 6]

明治29年(1896年)に米沢に移住し[2]養蚕製糸織物の改良に尽力した。米沢や沖縄での投資や奨学金に私財を惜しまず充てたため、家計は潤沢とはいえなかった。宮中での参賀や観桜会には妻を伴う儀礼ではあっても、婦人用大礼服は大変に高額な上に会費・交際費も負担が重く招待を断り続けていた。多年の欠礼を省みてついに明治35年(1902年)の新年参内に併せ、妻に礼装をしつらえさせると、日本橋白木屋洋服店の領収書に1028円81銭とあり、同家服飾費の2年半分を費やした。妻の兼は終生これ1着で済ましている[要出典]

大正8年(1919年4月18日薨去した[14]享年76[2]。法号は憲徳院殿権大僧都法印敬心。

年譜

  • 弘化3年(1846年)5月7日 - 世継ぎとなる。
  • 安政4年(1857年)11月15日 - 諱を憲章とする。
  • 万延元年(1860年
    • 2月18日 - 喜平次を称す。
    • 9月30日 - 将軍徳川家茂と初めて対面。
    • 10月23日 - 元服し、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の諱一字を賜わり、茂憲と名乗る。
  • 慶応4年(1868年)8月3日 - 解官。改元して明治元年12月7日、家督相続をするが、4万石減封。
  • 明治2年(1869年
    • 6月18日 - 米沢藩知事就任。
    • 6月24日 - 従四位下侍従兼式部大輔の官位を復す。
  • 明治4年(1871年)7月14日 - 廃藩置県により、米沢藩知事免官。
  • 明治5年(1872年
    • 1月26日 - 英国留学のため、横浜出航。
    • 3月23日 - ロンドンに到着。
  • 明治6年(1873年)12月29日 - 帰国。
  • 明治9年(1876年
    • 3月11日 - 明治政府の二等弁事に任官。
    • 5月25日 - 一等弁事に昇進。
    • 5月27日 - 宮内省第二部長に転ず。
    • 12月31日 - 宮内省第四部長に異動。
  • 明治10年(1877年)12月28日 - 宮内省五等官に准ず。
  • 明治14年(1881年
    • 5月18日 - 沖縄県令兼判事に異動。
    • 6月14日~16日 - 横浜より名古屋丸に乗船、16日夜半神戸到着。
    • 6月18日~25日 - 神戸より黄龍丸に乗船、鹿児島、奄美大島経由、25日那覇到着。
    • 6月29日 - 事務引継終了。
    • 11月8日~12月3日 - 沖縄本島全35間切を視察。
  • 明治15年(1882年
    • 1月25日 - 判事免官。
    • 3月11日 - 上京。
    • 4月27日 - 侯爵・尚泰邸訪問。
    • 5月6日 - 内務・大蔵省宛『沖縄県上申』提出。
    • 5月31日 - 再度意見書提出、即日却下さる。
    • 7月5日 - 帰沖。妻の兼、憲章、重を同伴。政府視察官として尾崎三良同行。
    • 8月17日~8月30日 - 久米島粟国島宮古島石垣島を視察(尾崎も同行)。
  • 明治16年(1883年
    • 4月22日 - 沖縄県令を免じ、元老院議官に異動。
    • 5月17日 - 離沖。
  • 明治17年(1884年)7月7日 - 伯爵を授爵[10]
  • 明治20年(1887年)12月26日 - 正四位に昇叙。
  • 明治22年(1889年
    • 5月20日 - 従三位に昇叙。
    • 11月25日 - 元老院議官[15]
  • 明治23年(1890年
    • 7月10日 - 貴族院議員に当選。
    • 10月20日 - 錦鶏間祗候[12]
  • 明治30年(1897年)7月10日 - 貴族院議員再選。
  • 明治31年(1898年)6月20日 - 正三位に昇叙。
  • 明治40年(1907年)7月2日 - 従二位に昇叙。
  • 大正6年(1917年)7月10日 - 正二位に昇叙。
  • 大正8年(1919年)4月18日 - 勲二等に叙勲。同日死去[14]

栄典

墓所

上杉家廟所にある茂憲の碑

墓所は東京都港区白金の興禅寺。歴代の米沢藩主は米沢市の上杉家廟所(国の史跡)に祀られていたが、明治以降に死去した斉憲からは前記の東京に墓所がある。しかし茂憲のみは沖縄県民有志により、歴代藩主廟に並んで記念碑が建立されている。

親族

上杉家系図

前半生は家族に恵まれなかったが、兼とは明治8年(1875年)、兼が16歳の時に結婚し、3男6女を儲け、終生添い遂げた。

脚注

注釈

  1. ^ 後の米沢義社の礎となる。現在は山形銀行と合併。
  2. ^ 池田成彬の父。
  3. ^ 島嶼間は汽船であったが、陸路は江戸時代と変わらず駕籠で移動した[4]
  4. ^ 清国との琉球帰属問題が完全に解決するのは日清戦争後である。
  5. ^ 沖縄県の資料・出版物では1500円と3000円の2説があって定まっていない。ただし離任後に賞勲局より、「県への1500円寄付」についての褒状が贈られている[要出典]伊波普猷は回想録で、上杉県令の寄付金「1500円」を校長が無駄にしたことを、中学でのストライキのきっかけの一つと記している[要出典]。なお、県令の月俸は200円であった。
  6. ^ 1890年11月より錦鶏間祗候は勅任官となる[13]

出典

  1. ^ 新田完三 1984, p. 902.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 上杉 茂憲”. 米沢偉人伝. 米沢市. 2023年8月30日閲覧。
  3. ^ a b c 米沢市史編さん委員会 1993, p. 547.
  4. ^ 国頭村史 1967, p. 230-240.
  5. ^ 読谷村 1988, p. 301-304頁、349-353頁.
  6. ^ 読谷村 1988, pp. 362-.
  7. ^ 読谷村 1988, pp. 355–356.
  8. ^ 米沢市史編さん委員会 1987, pp. 448–834.
  9. ^ 官報 1890a, p. 4.
  10. ^ a b c 官報 1884, p. 3.
  11. ^ 官報 1890b, p. 283、号外.
  12. ^ a b 官報 1890b, p. 284.
  13. ^ 官報 1890c, p. 18.
  14. ^ a b 官報 1919, p. 540.
  15. ^ a b 官報 1890, p. 4.
  16. ^ 官報 1887, p. 335.
  17. ^ 官報 1889, p. 2.
  18. ^ 日本弘道會評議員 子爵 大給近孝『大分県人士録』(大分県人士録発行所, 1914)
  19. ^ 近代日本(1868-1941)におけるハンセン病対策と3人の来日女性宣教師のハンセン病者救済活動青山静子、金城学院大学社会学部博士論文、 2015-03-18、p111

参考文献

主な執筆者順

  • 上杉隆憲 『上杉家年表』上杉家管理事務所、1993年
  • 「叙任 / 明治17年7月7日授伯爵 従四位上杉茂憲」(マイクロ)『官報』第307号、大蔵省印刷局(編)、1884年7月8日、3頁、doi:10.11501/2943511、国会図書館デジタルコレクション(0002.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
  • 「叙任及辞令 明治20年12月 授正四位 従四位上杉茂憲」(マイクロ)『官報』第1351号、大蔵省印刷局(編)、1887年12月28日、335頁、doi:10.11501/2944586、国会図書館デジタルコレクション(.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
  • 「叙任及辞令 / 明治22年11月25日 元老院議官 正四位伯爵上杉茂憲」(マイクロ)『官報』第1929号、大蔵省印刷局(編)、1889年12月2日、2頁、doi:10.11501/2945178、国会図書館デジタルコレクション(0002.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
  • 「叙任及辞令(賞勲局)/ 明治23年6月30日 叙勲三等賜瑞宝章 元老院議官 正四位伯爵上杉茂憲」(マイクロ)『官報』第2100号、大蔵省印刷局(編)、1890年7月1日、4頁、doi:10.11501/2945352、国会図書館デジタルコレクション (0003.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
    • 「達 / 宮内省 第21号 錦[鷄]間祗候待遇ノ件」18頁 (0002.jp2)
  • 「明治23年10月22日」(マイクロ)『官報』第2195号、大蔵省印刷局(編)、1890年10月20日、283、284、号外、doi:10.11501/2945446、国会図書館デジタルコレクション(0003.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
    • 明治23年10月22日 在職中格別勉励につきその賞として別紙目録の通り下賜す。目録金800円(10月21日内閣)非職元元老院議官 伯爵上杉茂憲ほか。283頁(0002.jp2)
    • 錦鶏間祗候被仰(10月20日宮内省)正四位勲三等伯爵上杉茂憲。284頁(0003.jp2)
    • 元老院廃止(号外、0014.jp2)
「詔勅 元老院閉院ノ件」
    • 「勅令第255号 元老院廢止」
    • 「勅令第256号 元老院議長副議長議官特別賞與ノ件」- 元老院廃止に際し議長副議長議官に特別賞与として金1500円以内の金額を支給。
    • 「彙報 / 元老院廢止ニ附キ廢官ノ輩心得方」
    • 「彙報 / 元老院廢止ニ附キ事務引渡ノ件」
  • 「達 / 宮内省第21号 錦[鷄]間祗候待遇ノ件」(マイクロ)『官報』、大蔵省印刷局(編)、1890年11月4日、18頁、doi:10.11501/2945458、国会図書館デジタルコレクション(コマ番号0002.jp2)。 全国書誌番号: 00084180
  • 「彙報 / 錦鷄間祗候薨去 正二位勲二等伯爵上杉茂憲」(マイクロ)『官報』第2013号、大蔵省印刷局(編)、1919年(大正8年)4月22日、540頁、doi:10.11501/2954127、国会図書館デジタルコレクション(コマ番号0005.jp2)。 
  • 「第5編 県政時代の国頭村 §第1部 沖縄県の設置と国頭間切の行政 §§第4節 上杉茂憲県令の国頭間切巡回」『国頭村史—本編』沖縄県国頭村 (編)、1967年、230-240頁。doi:10.11501/3449486。国会図書館デジタルコレクション(コマ番号0126.jp2-0131.jp2)。 
  • 米沢市史編さん委員会(編) 編『米沢市史』 資料篇 4、米沢市〈近現代史料 1〉、1987年、448-834頁。doi:10.11501/9571803全国書誌番号: 87029250 
    • 「東京御帳 §第8章(明治3年7月朔日より9月晦日迄)§§池田成章『過越方の記』」448頁- (0233.jp2-)
    • 「上」463頁- (0234.jp2-)
    • 「下」506頁- (0256.jp2-)
    • 「続編・上」555頁- (0280.jp2-)
    • 「続編・中」606頁- (0306.jp2-)
    • 「続編・下」655頁- (0330.jp2-)
    • 「拾遺」693頁- (0349.jp2-)
    • 「附録」728頁- (0367.jp2-)
    • 松野良寅「解説 池田成章自叙伝 過越方の記」805-834頁 (0405.jp2-) 米沢市史編さん委員長
  • 読谷村史編集委員会(編) 編「第4章「近代史料」にみる読谷山 — §§ 全体解説、§§4『上杉県令巡回日誌』の読谷山間切関係記事(1881年)」『読谷村史』 第3巻(資料編 2 文献にみる読谷山)、読谷村、1988年、301-304、349-353頁。国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号0171.jp2-0172.jp2 、0195.jp2-0197.jp2)。 
    • 「§§6 尾崎三良の『琉球行日誌』の中の読谷山間切(1882年)」355-356頁(コマ番号0198.jp2-)
    • 「§§7 笹森儀助の『南島探験』の読谷山間切視察行(一八九三年)」357頁-(コマ番号0199.jp2-)
    • 「§§10『旧慣調査資料』にみる読谷山の制度と租税」362頁-(コマ番号0202.jp2-)
    • 「§§11『沖縄県小作ニ関スル調査』にみる読谷山」374頁-(コマ番号0208.jp2-)
  • 米沢市史編さん委員会 編『米沢市史』 第三巻《近世編2》、米沢市長、1993年3月30日。NDLJP:9540921 (要登録)

関連資料

発行年順

  • 新聞集成明治編年史編纂会(編)「鍋島直彬、上杉茂憲」『新聞集成明治編年史』第4巻(国会開設運動期 明治12年-同14年)、393頁、林泉社、再版、1940年(昭和15年)、全国書誌番号: 50002761
  • 「第1篇 至第2編2、§§ 上杉茂憲2通」『憲政史編纂会収集文書目録』、国立国会図書館〈憲政資料室所蔵目録 ; 第1〉、1960年、__頁。doi:10.11501/3452155全国書誌番号: 78004819
  • 中山盛茂(編)「上杉茂憲」『琉球史辞典』琉球文教図書、1969年。 NCID BN01699039。「附録琉球史年表」944-1042頁。
  • 国立国会図書館参考書誌部(編)『三条家文書目録』第1巻(書類の部)、国立国会図書館〈憲政資料目録 ; 第9〉、1973年。全国書誌番号: 73018574
明治期書類の部—政治行政関係
59 歎願書類—§§32 上杉家位階昇進請願書類
    • 「ヘ、米沢藩政初度改革源図 宮島誠一郎 明治22年4月7日 1綴」
    • 「ト、上杉斉憲叙位年次 1綴」
    • 「ヌ、上杉斉憲叙位栄秀覚書 2月23日 1通」
外交関係
    • 「§§36 琉球関係」54頁-
諸氏意見書類
    • 「§§45 財政・税制—§§13上杉茂憲.太田資美建白書 政費節減民力休養 明治12年3月14日 1綴」、68頁。
  • 国立国会図書館参考書誌部(編)「書類の部補遺/書類の部(続)」『三条家文書目録』第2巻(書翰の部)、国立国会図書館〈憲政資料目録 ; 第13〉、1982年、全国書誌番号: 83012352
§191—岩倉具視
    • 「§§91 明治14年5月14日(代筆)鍋島沖縄県令議官転任 後任上杉茂憲内意奉命 右相談イタシタク明日芝公園能楽堂出席ナレバ左府公共々都合良シ 井上参議病気当分御用勤メ難キ..」
  • 沖縄県沖縄史料編集所(編)『上杉県令沖縄関係資料』沖縄県教育委員会〈沖縄県沖縄史料近代 ; 4〉1983年、全国書誌番号: 84048247doi:10.11501/9774799NCID BN00854169
    • 「沖縄本島巡回日誌」71頁-
    • 「上杉県令沖縄本島巡回日誌附録」145頁-
    • 「上杉県令先島巡回日誌」209頁-
    • 「事務引継書類(上)」261頁-
    • 「事務引継書類(下)」333頁-
  • 沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室(編)「上杉茂憲所蔵本組踊集」『芸能』第2巻、沖縄県教育委員会〈沖縄県史料シリーズ前近代11〉、1998年、__頁(コマ番号0334.jp2-)、doi:10.11501/9639980NCID BN13096427。国立国会図書館デジタルコレクション。
    • 「花売之縁」595頁-(コマ番号0335.jp2-)
    • 「伏山敵討」603頁-(コマ番号0339.jp2-)
  • 童門冬二『上杉茂憲 沖縄県令になった最後の米沢藩主』〈祥伝社新書248〉、2011年、 ISBN 9784396112486NCID BB0694302X
  • 千田康治「最後の米沢藩主・上杉茂憲の甲冑について」『甲冑武具研究』第188号、東京 : 日本甲冑武具研究保存会 2014年12月、2-9頁。 ISSN 03878155
  • 高橋義夫『沖縄の殿様 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記』〈中公新書2320〉、2015年、 ISBN 9784121023209NCID BB18655270
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 

関連項目

外部リンク

日本の爵位
先代
創設
伯爵
米沢上杉家初代
1884年 - 1919年
次代
上杉憲章

上杉茂憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 05:02 UTC 版)

まんが首里城ものがたり」の記事における「上杉茂憲」の解説

第二代・沖縄県令(県知事)。県民貧困事情鑑みて政府減税などを訴えるが逆に罷免される県民留学における寄付金を提供、娘に「琉」と名付けるなど、沖縄に対して思い入れいい人物で、沖縄では評判がいい日本人である。

※この「上杉茂憲」の解説は、「まんが首里城ものがたり」の解説の一部です。
「上杉茂憲」を含む「まんが首里城ものがたり」の記事については、「まんが首里城ものがたり」の概要を参照ください。

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