上杉憲顕とは? わかりやすく解説

うえすぎ‐のりあき〔うへすぎ‐〕【上杉憲顕】

読み方:うえすぎのりあき

[1306〜1368]南北朝時代武将関東管領伊豆上野越後守護。山内上杉氏の祖。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)で足利直義与して高師冬(こうのもろふゆ)を亡ぼすが、足利尊氏戦って敗れた

上杉憲顕の画像
紋所の「上杉笹」

上杉憲顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/18 13:25 UTC 版)

 
上杉憲顕
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 徳治元年(1306年
死没 正平23年/応安元年9月19日1368年10月31日
改名 憲顕→道昌(号)
戒名 国清寺桂山道昌
墓所 静岡県伊豆の国市奈古屋国清寺
官位 従五位上[1]民部大輔[2]
幕府 室町幕府関東管領
上野越後武蔵安房守護
主君 足利尊氏直義義詮基氏
氏族 上杉氏山内上杉家
父母 父:上杉憲房
兄弟 憲顕憲藤重行高師泰正室、
養兄弟:重能重兼高師秋室(勧修寺道宏子)
木戸氏娘・北条時政苗裔
憲将、憲賢、能憲憲春憲方憲英憲栄、覚翁祖伝、岩松直国室、上杉朝房室、憲利、比丘尼(芳山了薫)、蔵主豆州了省蔵主(了省)
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上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将守護大名。初代関東管領上野越後伊豆守護を兼ねた。山内上杉家の祖[3]室町幕府初代将軍・足利尊氏の母清子は父方の叔母であり、尊氏・直義兄弟とは従兄弟の関係であった[4]

生涯

誕生

徳治元年(1306年)、上杉憲房の子として誕生する。上杉憲顕の生年・没年について「尊卑分脈」には「従五位民部大輔・関東管領」とあるだけだが、『続群書類従』所収の「上杉氏家系図」に応安元年(1368年)9月19日に63歳でなくなったとあり、他の系図もこれにならっている[5]。出生地は不詳だが、この頃は憲顕の父・上杉憲房が仕えた永嘉門院宗尊親王息女の瑞子女王[6])が存命であり、父の憲房は在京して女院に仕え、憲顕の生まれもまた京都であったのではないかと推測されている[5]

鎌倉幕府滅亡以前の憲顕は、蔵人として何れかの人物に仕え、京都・鎌倉間を往反していた可能性があると指摘されている[5]。これは後述の廂番衆としてみえる史料「建武記」に「蔵人憲顕」とあることや、憲顕の従兄弟・上杉重藤も院蔵人であり、建武2年(1335年)8月19日の駿河国府合戦の分取大名の中には「上椙蔵人修理亮」と憲顕の兄弟の上杉憲藤犬懸上杉家の祖[7])の名が見えるなど、上杉一族が京都で蔵人としての生活をしていた可能性が高いためである[5]

建武政権期 

鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政において関東では足利尊氏の弟・直義後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に鎌倉将軍府を成立させ、元弘4年(1334年)正月には成良の護衛として関東廂番(ひさしばん)が置かれた[5]。『建武記』に拠れば関東廂番は六番39名が任じられているが、二番番衆の一人として憲顕の名が見られ、これが史料上の初見となっている[5]。この時憲顕は27歳[8]。憲顕以外の上杉一門では一番の番衆に上杉重行左京亮)、六番の番衆に上杉重能(蔵人伊豆守)がみえており、いずれも憲顕の兄弟にあたる[5] 。父の憲房は京都で雑訴決断所所員として都に残っていたが、憲顕らは直義に従い、鎌倉将軍府の構成員として存在していた[9]

建武2年(1335年)に鎌倉で起きた中先代の乱を足利尊氏が鎮圧すると、尊氏は上野遠江信濃陸奥などの所領を諸将へ恩賞として与えており、この前後に憲顕の父・憲房が上野国守護職に補任された[10]。上野国は建武政権下では新田義貞が国司と守護を兼任しており、足利・新田両勢力の熾烈な争いが想定されるため、これには尊氏の憲房への期待の高さがうかがえるという[8]。その後「梅松論」によれば、乱の鎮圧後も関東に留まっていた尊氏に対し、建武政権が勅使を派遣して上洛を命じたが、『太平記』によると直義が義貞らの陰謀を理由にこれを拒否して新田義貞の追討を奏上したことで義貞・直義間の確執がエスカレートしていき、さらに直義の命による護良親王の殺害や、尊氏による全国の武士への軍勢催促などが明るみとなったことから、後醍醐天皇が尊氏の追討を決め、11月8日に義貞を大将とする軍勢を鎌倉に派遣することとなった[11]。尊氏は箱根竹之下などの戦いで新田軍を破った[12]。新田軍を追撃して京に攻め上る際に尊氏は、子の千寿王(足利義詮)を鎌倉に留めて関東を任せており、義詮は鎌倉将軍府の役割と権限を引き継いでいる[13]。同年11月に尊氏・直義が京都を目指す際には憲房・上杉朝定・重能が従軍し、憲顕と憲藤は鎌倉に留まった[14]

建武3年(1336年)1月、父・憲房が洛中での南朝方の北畠顕家新田義貞と戦いで戦死する[15]。「梅松論」によれば、南朝方には竹之下合戦に間に合わなかった無傷の軍勢がいたため士気が高く、数刻の激戦の後に足利方の軍勢が崩れたため、切々たる尊氏・直義らの顔色をみた憲房をはじめとする有力武将が趨勢を挽回するために次々と前線に出て戦い、尊氏らはその間に急場を離脱する事ができたという[16]。憲房らの犠牲のもと、京都を落ちのびて九州に逃れた尊氏は翌年に再上洛し、室町幕府の創設につながっていく[9]。なお、尊氏が九州に落ちると石見国に派遣されたと『太平記』にあるが、これは後に石見守護となった上野頼兼の間違いと思われる[17]

上野守護

憲房が戦死したことで、憲顕は父の跡を継いで上野国の守護となった[18]。この時、憲顕は31歳[19]。憲房の死後、上杉氏には一族を統括する惣領はおらず、在京の上杉朝房扇谷上杉家)・重能[20]と在鎌倉の憲顕(山内上杉家)が中心的存在となっていく[21]

当時の上野の統治状況については、建武3年(1336年)12月付の「佐野安房一王丸軍忠状写」から、斯波家長が率いる足利方の軍勢が建武3年(1336年)正月9日に新田城を攻め落とし、次いで西上州に向かって進撃して3月10日に中野楯(群馬県邑楽町)、4月22日に利根川中渡で新田方の軍勢を破り、翌23日に新田義貞の守護所が置かれていた板鼻(群馬県安中市)を攻略するなど、新田方の勢力を上野から駆逐していたことがわかっている[18]。この家長による上野平定後に家長に代わって憲顕が日付は不明ながら上野に入部したとみられている[18]

尊氏は建武3年10月19日付の文書で憲顕に「下野国皆川荘内關所」を預け置くことを伝え、下野国守護の小山氏に同所の沙汰付を命じ、陸奥北畠顕家が上洛する場合には下野国南部が防衛拠点となるため、その場合は小山周辺まで上野の軍勢を発向させるよう憲顕に指示した[22]。この文書中では憲顕は「安房守」と呼ばれているが、これ以降の文書では「民部大輔」となっており、上野入部前後に憲顕にこの官途が与えられたと考えられている[22]。また、建武4年(1337年)5月19日付の直義の書状より、同年5月以前に確実に憲顕が上野に入ったことがわかっている[23]。さらに建武4年(1337年)の可能性がある年号欠の3月29日付の文書にて直義が憲顕に、小笠原長綱からの「碓井郡牧田村(群馬県安中市)の所領が關所に混入され軍勢に預け置かれてしまったので返却してほしい」とい訴えを伝えているため、建武4年3月29日の時点で憲顕はすでに上野に下国し、關所の預置などの実務や、直義の指示に従っての訴訟の処理などをこなしていたとも考えられている[24]

御下向の後、国中静謐目出候、諸国の守護の非法のミ聞き候に、当国の沙汰法の如く殊勝の義、諸人申し合わせ候の間、感悦極まりなく候、
御親父の忠節他に異なり、諸事を沙汰申し候い、昨年正月討ち死にの後は万事力を落とし候て、悲嘆極まりなきの処、此の国のさた殊勝に承り候の間、御親父の生き帰られて候と悦び入り候、父子の御忠功誰かあらそうへく候や、(足利直義書状 建武4年5月19日)[22]

建武4年5月19日付の書状で直義は「憲顕の下向後、国中が静謐となってめでたく、他の国では守護の非法のみが聞こえるが、当国(上野)のやり方は法に敵ってうまく治めているとの評判で感心している」という直義からの祝意と憲顕を褒める内容[22]に加えて、憲房の戦死では力を落としたが、憲顕の活躍は「御親父のいき帰ったよう」で喜ばしく、父子の忠孝は格別であることを伝えている[8]。憲顕は入部後、短期間のうちに反対勢力を抑え込むことに成功し、直義の厚い信頼を得ていた[25]。憲顕は交通の要衝である板鼻に守護所を置いたとみられ、後に憲顕の娘の了薫に関わる海龍寺もここに設けられている[26]

この文書の後半で直義は「越後さへ蜂起候らん、驚き入り候」と越後において蜂起があったことを伝えている[25]。越後では同年3月14日に新田義貞が佐々木忠枝を守護代として送り込んだ後に佐々木忠清と南保重貞、加えて4月16日に南朝方の池・風間氏らが蜂起しており、足利方の高梨経頼が討伐に向かっているものの越後守護らが在京して不在のため、直義は憲顕に守護代として急速に出立することを求めた[25]。しかし「市河文書」からは同年8月に信濃守護の高師幸が越後に発向したことがわかっており、12月には高師泰が越後守護として在任しているため、実際に憲顕が越後に下向した可能性はないという[25]。同年11月2日、憲顕は尊氏から、新田氏の旧領で南北朝期の新田氏の守護所が置かれていた最重要拠点・八幡荘以下の所領を与えられており、その足利尊氏御行書が「上杉家文書」に残されている[27]

八幡庄已下の事、事書を遣わさる所也、彼の状を守り、沙汰致さるべきの状、仰せによって執達件の如し、
建武四年十一月月二日 武蔵権守(花押)
上杉民部大輔殿[27]

奥州勢との戦い

建武4年(1337年)8月11日、南朝方で奥州の北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を報じて西上を開始し、同月19日に白河関を越えて下野国に入ると、上野にいた憲顕は奥州勢の進出を阻止するため、守護所が置かれている小山まで軍勢を進めた[28]。しかし小山は奥州勢に制され、同年9月3日に直義は、憲顕が小山城まで赴いて奥州軍と戦ったことを賞する将軍家御行書を送っている[28]

小山城(栃木県小山市

小山城を退いた憲顕はついで「富根河」(江戸時代の変流以前、現在の広瀬川・桃木河が流れる川筋)で顕家軍を迎え撃った。

広瀬川(画像は前橋市内)

顕家軍は鎌倉と奥州をつなぐ幹線道路・奥大道を通ったが、奥大道には小山で南下して鎌倉に直接進む道と、佐野足利を経て上野の中央部をほぼ直線で横断し、板鼻から碓氷峠に至る道があり、顕家軍は後者の上野を東西に横断する道に入っていた[28]。これは新田義貞の子・新田義興との連携のためともいわれるが、前者の道では極寒の時期に水量の多い利根川下流や荒川下流を渡るという危険や渡河点での敵の待ち伏せを避けるという当時の軍事常識に従っての迂回と考えられている[29]。富根河の合戦は茂呂(群馬県伊勢崎市茂呂町)付近で行われたようで『太平記』にも合戦に関する記述がある[30]

憲顕はこの戦いにも敗れて退却し、その憲顕軍を追って顕家軍は武蔵国に入り、次いで安保原合戦(埼玉県神川町)で再び足利方を撃破して鎌倉街道上道に入り、府中を奪ってここに5日間逗留してから鎌倉へ進出した[31]。憲顕は再び鎌倉で奥州軍を迎え撃ち、『太平記』によればこの時に上杉中務大輔(憲藤)も足利義詮の下にいたが、鎌倉軍は三度敗れ、義詮はからくも落ち延びたという[32]。また鎌倉での敗戦で斯波家長が杉本城にて12月23日に敗死している[33]

杉本寺(神奈川県鎌倉市)

足利軍は、鎌倉合戦で勝利して東海道を西上する[34]奥州勢を追走して、翌年の建武5年(1338年)正月に美濃国青野原(岐阜県大垣市垂井町)で対決しており、『太平記』では憲顕も従兄弟の藤成とともに上野・武蔵国の勢力を率いて参戦しており、この戦いでも足利方は敗れたが、その後顕家は5月22日に高師直に敗れて和泉国石津で戦死した[34]

憲顕は『鶴岡社務記録』より、青野原合戦後にしばらく在京したのちに同年6月9日に鎌倉に戻ったことがわかっている[8]。以下の高師直が差出人の御行書「田中教忠氏所蔵文書」から、このころの憲顕は相模国の守護となっていたとみられている[35]

走湯山密厳院雑掌通性申す、相模国金□郷事、甲乙人幷びに悪党等、濫妨狼藉と云々、其の頗る遁れ□し、不日彼の狼藉人等を退け、雑掌に沙汰付けらるべきの状、仰せに依りて執達くだんの如し
建武五年五月廿七日 武蔵守(高師直)(花押)
上杉民部大輔殿

伊豆国守護の前任は石塔義房だったが、これと同日のほぼ同文の師直の御行書が「伊豆守」の憲顕の義兄弟の重能に出されており、義房が顕家の進軍を阻止できなかったため守護を替えられた可能性があるという[36]。憲顕の相模国守護職も同様の理由によるものと考えられている[36]。ただし、この伊豆守護の重能と同様の内容の師直の奉書が憲顕宛に発給されていることが相模守護であったことに相違ないとする証拠[37]と言われる一方で、憲顕の相模国守護在任を示す史料が他になく、まもなく相模国守護は交代したか[36]、そもそも憲顕が相模国の守護になったかを疑問視する研究もある[38]

関東執事就任・上洛

奥州勢との戦いの間の延元3年/暦応元年(1338年)に、憲顕の弟・憲藤摂津国渡辺川で顕家と戦って戦死した([注釈 1]。また扇谷家の上杉重顕猶子となっていた重行も、ともに討死している[39]。憲顕は憲藤に代わって関東執事に任じられることになった[4]。ただし、憲藤の関東執事就任を記すのは彰考館本『鎌倉大日記』のみで、比較的信頼性の高い生田本『鎌倉大日記』には憲藤の執事就任がみえないことや、憲房の後継者である憲顕を抜きにしての憲藤の関東執事就任は考えにくいことから、小栗博や駒見敬祐などはこれを疑問視している[40]。建武4年(1337年)までの憲顕の発給文書・受給文書のいずれにも執事の職権を示すものはみられないため、この時はまだ関東執事ではなかったと考えられているが[41]、暦応元年(1338年)以降の憲顕の受給文書の内容からは、建武4年(1337年)12月に死去した家長のあとをうけて執事に就任したことが伺えるため[42]、暦応元年(1338年)6月から12月までの期間、その地位にいたとみられている[43]

暦応元年(1338年)12月29日、直義は憲顕に対して「上杉重能が出仕停止となったため憲顕に速やかに上洛するように」という御行書を送り、鎌倉にいた憲顕は上洛することになった[43]。もともと西国に縁がある[44]憲顕は関東での政務を望まず直義に近侍したかったようで、憲顕は「関東警固の事、度々暇を申」していたが、南朝方勢力が衰えない関東の情勢を信頼のおける憲顕に任せたかったため、それまでは直義はこれを許可していなかった[8]。憲顕は暦応2年(1339年)の前半に上洛し、暦応3年(1340年)まで在京した[45]。重能の出仕停止の理由は不明である[44]。憲顕の在京中の活動を示す史料として、暦応2年(1339年)8月4日に憲顕が尊氏の命を報じて丹波国守護の仁木頼章に軍勢の「濫妨」を停止させ、丹波国吉富本荘・新荘の両荘園を寺家雑掌に引き渡すように伝えた「神護寺文書」がある[45]。その後、暦応3年(1340年)より憲顕自身の発給文書が見られるようになることから、同年6月前後に関東に戻った憲顕が関東執事に再就任したとみられており、憲顕はこの年から観応2年(1351年)12月に失脚するまで執事として活動していたとみられている[43]

上杉憲顕花押(康永4年6月27日)(『花押データベース』東京大学史料編纂所編を改変)[46]

越後国での活動

暦応元年(1338年)9月、南朝の北畠親房伊勢国から船で常陸国に入り、小田治久に迎えられて小田城(茨城県つくば市)に入ると、これに対抗することを目的として、暦応2年(1339年)4月に高師冬が京都から関東に下向し、同年6月に単独で執事に就任して[47]、同年9月に常陸国に発向した(常陸合戦[48]。師冬がこの時期に関東で発給した文書は軍事関係の事柄が多く、建武4年(1337年)12月に顕家の奥州軍と戦って戦死した斯波家長が持っていた軍事指揮権を師冬が継承したとみられている[49]。師冬は南朝方と戦い、暦応4年(1341年)11月には小田城を開城させて、親房を関城(茨城県筑西市)に追いやった[48]

一方で憲顕は、上野国と同じく新田義貞が国司と守護を兼任していた越後国の対応に追われた[48]。憲顕と師冬については互いに関東執事として並び立つ、尊氏(高師直)派と直義派の対立構造と同一に見られがちだが、この時点では師冬は常陸、憲顕は越後への対応と、明確な役割分担がなされていた[50]。また、執事だった家長・師冬・憲顕は、南朝勢力との抗争という特殊な環境の中で尊氏や直義の指示下で主に軍事権限を発動しており、この時期の憲顕らの権限はのちの関東管領とは大きく異なっている[49]

暦応4年(1341年)、宗良親王が越後国寺泊に入ったことで南朝方の勢力が強まっていたため、これに対応するために憲顕は越後国に出陣した[48]。この時以来、憲顕は越後国守護も兼ねることになった[48]。ただし、この時期の憲顕の軍事指揮中心の行動については守護というよりも国大将としての色彩が強く、守護職就任を否定する見解もある[51]。同年6月、憲顕は越後国の関(新潟県南魚沼市か)での合戦などで軍忠を挙げた小林重政の着到状に証判を据え、鎌倉にも6月7日に越後の城をことごとく打ち落としたと飛脚を送ったことが『鶴岡社務記録』にみえている[48]。小林氏は高山御厨小林(群馬県藤岡市)を本貫とする秩父平氏系の高山氏の一族であり、越後平定にあたって憲顕は小林氏のような上野国人を組織して率いたとみられている[52]。上杉軍は越後に進出後、5月17日に関合戦、同24日に□(夢カ)崎合戦(魚沼市小出付近の伊米崎、もしくは岩崎との推定)、6月1日に蒲原津城新潟市)を攻め、半月の間に魚野川信濃川を遡って日本海側まで達していた[53]。一方で信濃守護の小笠原貞宗も、5月28日に市河倫房らを率いて越後妻有荘の新田一族の館を焼き払ったという[52]。9月には再び南朝方が蜂起するが、10月9日に長尾景忠[注釈 2]が、河内藤倉城(十日町市)を落城させたことより南朝方の動きは収束し、宗良親王も越中に移った[51]

憲顕が越後在陣中の康永元年(1342年)12月23日、憲顕の伯母で尊氏・直義の生母・上杉清子が亡くなる[48]。翌年正月27日付の直義御行書によれば、葬儀にはやむなく[51]子息の上杉憲将を遣わして憲顕自身は越後在陣を続けており、直義はその行動を「有益」と褒めた[48]。またこれと同時に憲顕は長尾景忠を上野国に派遣しており、上野でも不穏な動きがあったとみられている[51]。この時期、2月19日付の和田茂美(越後勢)宛の「源頼世書状」には憲顕の上洛がない事と、「越州凶徒連々蜂起候」と南朝方の動きがあったことが記されている[51]。さらに出羽国大泉荘(山形県鶴岡市)の藤嶋城凶徒が越後小泉荘(新潟県村上市)への攻め入ったとの通報が茂美の下に入るなど、依然として憲顕は越後から手が抜けない状況であった[55]

康永2年(1343年)3月4日付で越後国守護上杉憲顕に小泉荘内の所領を青木武房に沙汰付するよう幕府が命じる文書が「色部文書」にあり、裁判で争われた所領の打渡し(沙汰付)は守護の職務の1つであることから、この段階で憲顕が明確に越後国守護に就いていることがわかっている[56]。憲顕は康永3年(1343年)7月まで越後に在陣し[48]、平定を終えた越後を守護代の長尾景忠らに任せて、7月4日に鎌倉に戻った。

康永4年(1344年)閏2月に常陸国の平定を遂げた師冬が京都に帰洛し[50]、関東での憲顕の立場はいよいよ重みを増す[57] 。同年8月12日付の「真壁文書」と貞和2年(1346年)5月17日の「密蔵院古文書」からは、高師直が尊氏の意を受けて、師冬が担当していた常陸国内での所領の沙汰付を憲顕に命じたことがわかっており、この命令を下された人物が守護であることを示していることから、当時常陸国の守護だった佐竹貞義が一時的に解任されたか、憲顕が分群守護となったとみられている[58]。とくに真壁は師冬が活動していた常陸の南西部のため、憲顕が一時的に師冬の権限を継承したとも考えられている[58] 。同年10月20日、新田氏の勢力が強い[59]越後国では、戦費調達などのための守護領が未だ十分なものではなかったことを幕府が認めていたため[60]、直義が守護領の不足分として「越後国上田庄未給分」を、11月1日に尊氏が「大面庄井上宮内権少輔俊清跡地頭職」を相模国河勾荘・常陸国佐都東郡半分の替地として憲顕に与えている[59]。貞和2年(1346年)12月12日、建長寺の長老が京都から鎌倉に下向するにあたり、憲顕は尊氏からその案内を頼まれており、関東の案内者として尊氏からも評価されていた[50]

観応の擾乱

正平4年/貞和5年(1349年)、観応の擾乱で直義と高師直の軋轢が表面化し、両者の最初の対決が師直の勝利に終わると[50]、隠棲した直義に代わって義詮が鎌倉から上洛し、義詮に代わって尊氏の四男足利基氏が京都から鎌倉に下向した[50]。このとき基氏はまだ9歳(数え年で10歳)で、貴種として鎌倉に据えられたにすぎない状況であり、その補佐役に憲顕と、観応元年(1350年)正月に再び京都から下向した師冬が付く事になった[50]。このときの師冬と憲顕はまぎれもなく師直と直義の対立の縮図で、同年正月25日には憲顕の宿所で「廻文」を持ち来った僧が召し取られるなど、関東でも不穏な空気が流れていた[50]。2月11日には憲顕が春日大社[注釈 3]に何事か祈祷を依頼しており、内容は不明だが関東の安定と政敵の没落を祈るものであったと考えられている[61]。さらに憲顕は3月24日に伊豆三嶋社が「怪異」を注進していたことに対して、基氏の命により僧らに祈祷を精真するよう命じており、神意を借りてでも不穏な動きを何とか抑え込もうとしていたとみられる[61]

師冬との間に不穏な空気が流れる一方で、新しく鎌倉に下向してきた基氏とはこの時が初対面と推定されるが、のちの基氏の行動から考えると信頼関係以上のものが生まれていたとみられている[63]。基氏は「師守記」康永3年(1344年)6月17日条から直義の養子となって直義の許で育てられていたとする説もある人物である[63]。なお、基氏の鎌倉下向に際して直義が「若御前鎌倉へ御出候らん」と憲顕に送ったとされる6月廿日付の文書について、久保田順一は事前に直義が基氏の下向が尊氏の主導によって進行中であることを憲顕の周りの人物に伝えたものとしているが[64]、この文書については筆跡の一致や文書の内容・日付・宛所から後半箇所が「□月11日」付の別の文書との接続が正しく、それも建武5年(1337年)のものであるという見解が青木文彦、上島有、伊藤喜良、峰岸純夫、『新潟県史 資料編三』『南北朝遺文(一)』、山部木の実など複数の研究で指摘されており[65]、この文書は正しくは『鶴岡社務記録』の中にあるように「若御前」である足利義詮が鎌倉へ帰還した建武5年7月11日付の文書だと考えられている[66]

憲顕は師冬と共に基氏を補佐するが、貞和5年(1350年)8月の高師直によるクーデター(御所巻)後の12月21日に直義方の従兄弟・重能が越前で殺害される[67]。観応元年(1351年)年10月、直義が南朝に降伏して直義派・師直派の武力対決が行われるにいたると、この影響はほぼ同時に関東に及んだ[50]

「石塔義房沙弥義慶注進状案」によれば、11月12日に上杉左衛門蔵人(上杉能憲とされていたが、この時に能憲はすでに兵部少輔となっているため[68]、近年では別人とされる)が常陸国信太荘で挙兵したのに呼応し、12月1日に憲顕も常陸と上野から鎌倉に攻め上ろうとするために[69]上野国に下向し[50]、高師冬包囲体制を作った[69]。孤立した師冬は基氏を擁して鎌倉から落ち延びたが、基氏に供奉していた8名の側近のうち石塔義房と中賀野加子・加子らが、高一族の三戸・彦部・尾代らを道中の湯山(神奈川県厚木市)で殺害して基氏を奪い、基氏を鎌倉に還御させた[70]。師冬はさらに西へ逃れて甲斐の逸見城に立てこもったが、観応2年(1351年)正月4日に憲将が討手として派遣され、師冬を討ち取ったという[70]。なお『太平記』は一次史料の義房の注進状案と比べると、憲顕の上野下向の目的(能憲征伐と称し師冬を油断させて武蔵の兵を集める)、師冬の進路や基氏を奪われる過程(上野に向かったが兵が集まらず基氏を奪われる)、立てこもった城の名(須沢城)や攻撃者(諏訪外宮祝部)などが異なっている[70]

師冬を滅ぼして関東が憲顕の一人体制となると[71]、憲顕は自身の子で宅間上杉家の祖である[72]重能の養子に迎えられていた[73]上杉能憲と、加子宮内三郎らを京の直義への援軍に送り、自身の出陣も計画するが、憲顕の出陣は2月3日付の直義からのこれまでの憲顕の忠節を褒めるとともに、分別もなく上洛すれば日頃の忠節も無駄になってしまうと述べる文書によって止められた[74]

今度の合戦の忠、他に異なり、承り候、感悦極まりなく候、上洛あるべきの由の事、おとろき入り候、いよいよ大事にて候に、さう(左右)無く御上り候へば、日ころの忠もいたつら(徒)の事に候へく委細この僧申さるべく候なり、謹言、
二月三日 (花押)
民部大輔殿[74]

勝利が確定した同年3月15日に直義は、軍忠者への恩賞は「関東分国内關所」を以て行うよう直筆の御行書で[75]憲顕に命じ[76]、憲顕は直義から関東での独自の裁量を認められた[77]。これは在京して再び政務を執っている直義の代理かつ、直義方勝利への貢献に対する一種の特権付与的措置として直義が憲顕に認めたもので、腹心の憲顕を通じて関東の直義方に対する恩賞給付を行うことで、自らの軍事的基盤を維持・拡充しようとした直義の意図があったとみられる[78]。なお、この御行書で「憲将の手に属し、軍忠を致す」輩と述べられていることから、関東の軍勢を率いて出陣したのは憲顕の嫡男の上杉憲将で、憲顕が上洛していないことが明らかである[75]

また、直義派が主導するところとなった[77]関東においては、観応2年(1351年)正月5日に基氏が12歳で元服以前の異例の判始を行った[79]。武家では15歳で元服した後に判始を行うため、これは基氏を擁立する状況下での憲顕の判断で[80]、師冬との戦いへ参加した関東諸士への着到証判や感状に基氏の花押が必要(基氏の証判を加える事で、基氏・憲顕への忠誠心を高める[80])と判断しての処置として行われたものと考えられている[79]。基氏の花押については直義型の流れを汲むことが指摘されているが、これは「幼少ヨリ(基氏を)懐キソダテ」た憲顕が仲介となっての政治的状況を背景として成立したものであった[81]

このころ、足利付近に尊氏に従う勢力があったらしく、5月3日に基氏は下野国鶏足寺の小俣尊光に対して凶徒蜂起の聞こえがあるとして軍勢催促を命じており、8月には憲顕に擁されて基氏は鎌倉を発ち、9月1日に新田荘世良田に到着している。その後9月21日に長楽寺、9月23日には下野鑁阿寺に寄進をしており[80]、これらの基氏の公方としての公式の寄進状は憲顕の奉書で出された[76]

敗北・没落

観応2年(1351年)2月の打出浜の戦いで高師直らは能憲により殺害され、政界に返り咲いて[76]優位に立った直義だが、同年8月には京都を脱出して北陸に向かうことになる[82]。「正木文書」によれば、直義は脱出前の同年7月2日時点で上野新田の岩松直国に「本知行地」を安堵する御行書を下しており、今後の協力を確実なものにしようとしていたようである[83]。またこの時の関東の守護は、高一族が守護だった武蔵国が憲顕、相模国が三浦高通に、伊豆国が石塔義房・上杉能憲に変わっており、直義派が各国に進出していた[83]

直義は11月15日に鎌倉に入るが、その10日前に憲顕は東海道辺りで尊氏から直義の関東下向を妨害するよう命じられていた小笠原某と合戦を行った[82]。直義が鎌倉に動いたことで決戦の舞台も東国に移り[84]、尊氏は南朝と和議を結んで(正平一統)後顧の憂いを経った後11月4日に[85]関東へと発向する[82]

直義方は東海道の要地に軍勢を配置しており、10月28日に遠江引間宿(静岡県浜松市)で吉良満良代富永と佐藤元清(尊氏方)が合戦、さらに小夜中山(掛川市金谷町の間の峠)で上杉勢の数千騎と元清が戦い、上杉の若党の力石兵庫助[注釈 4]が討ち取られた[83]。憲顕は『鶴岡社務記録』によると11月5日に信濃国守護の小笠原方と戦っており、尊氏進出以前から吉良や上杉は引間宿あたりまで軍勢を出していた[83]

尊氏は11月26日に掛川を通過して、同月晦日に駿河国薩埵山に陣を貼り、後詰となる[86]宇都宮氏綱軍の到来を待った[85]。直義も氏綱を警戒して上野へ桃井直常・長尾景忠の軍を送っている[86]。その氏綱軍は12月16日に佐位荘木島(伊勢崎市境町)、19日に那波(伊勢崎市西部)で合戦、次いで武蔵に入って20日に武蔵府中に進出し、小沢城を焼いて29日に相模足柄山の敵を追い落とし、翌年正月1日に伊豆国府に到ったことが「香林直秀軍忠状」「高麗助綱軍忠状」「高麗経澄軍忠状」にみえている[87]。このうち、経澄の軍忠状には

薬師寺加賀入道宇都宮下向の間、対面を遂げ、上杉民部大輔誅伐せしむべきの由、条々談合致しおはんぬ、

という文言があり、わざわざ憲顕誅伐を記載していることから、『太平記』で打出浜で高師直に幻滅し、剃髪して高野山に向かったという薬師寺公義(この時は本拠の下野市薬師寺にいたか)が憲顕に対し、異常なほどの敵愾心を持っていたことが伺えるという[87]

薩埵峠(静岡県静岡市清水区

薩埵山の戦いは、「別府文書」に見られるように氏綱軍が近づくにつれて白旗一揆が尊氏方に鞍替えするなど、内部崩壊した直義軍が破れた。直義は伊豆国北条に落ちたあと走湯権現(静岡県熱海市)まで逃れた所で尊氏からの和睦の申し入れを受けるが、この時に憲顕は信濃へ落ちて行ったという[88]。憲顕の被官にみえる力石・臼田・土岐原などは信濃東部の出身で、憲顕は彼らの支援によって勢力の回復を図ろうとしたと考えられている[88]。直義は尊氏に連れられて鎌倉に入り、観応3年(1352年)2月26日に没した[82]

榛名神社本殿(群馬県高崎市

この合戦の後、『太平記』によれば憲顕は南朝方と合流して同年閏2月から3月に行われた武蔵野合戦に参加して再度尊氏と戦うが敗れ、再び信越方面に逃れている[82]。なお榛名神社の僧侶・頼印にまつわる「頼印大僧正絵伝」には、武蔵野合戦に向かう前に憲顕が石上の寺に宿を取って頼印と密会し、「尊氏を敵として戦い倒そうとしたがそれは望んだことではなく、願わくば祈禱によって和睦を実現してほしい」と述べて、頼印はこれを快諾し、尊氏の死後に義詮から越後の守護に任じられると憲顕はその功績に報いて大前の保司職を寄付した、という伝説が残っている[89]。これは状況的に事実とは思えず、のちに頼印と上杉一族が親密な関係になることから創作された話と考えられており[90]、頼印には永和2年(1376年)に憲顕の息子・能憲の急病にあたって14日間祈禱し、これにより能憲が3年延命したという話もある[91]

その後、憲顕の活動はしばらく見られず、上杉方の中心は子の憲将となる。憲顕は剃髪して道昌と号し、齢も50に近づいていた[92]。憲将は憲顕の出家隠遁を受けてその後を継ぎ、前線に立っていたとみられる[93]。上杉家の所領は全て奪われて尊氏派の武士に給与されており[94]、越後・上野などの所領は新たに守護となった宇都宮氏に、伊豆の所領は畠山国清に与えられたとみられている[94]

抵抗活動

武蔵野合戦後、尊氏は南朝と手を切って正平元号を止めて、東国の守護の配置を新たにしており、これを薩埵山体制という[95]。新体制の中核は畠山国清(関東執事)、河越直重、宇都宮氏綱が担い、基氏は入間川御陣に下向していた[96]。尊氏に敗北した後の憲顕は関東での居所を失って[94]信濃近辺に住み、ゲリラ活動を行っていた[97]。憲顕に変わり越後・上野の守護となっていた宇都宮氏は守護代として芳賀一族を送り込んで上杉方勢力の掃討を行った[98]

観応3年(1352年)11月29日の「関義胤軍忠状」には、憲顕余党対治のために関義胤の子らが黒川茂美について黒川城(新潟県胎内市)に立て籠って戦った記録があり、この時は軍事的には上杉方が勝っていたが、8月8日には義胤の子らが茂美に従い軍勢を動かして浜中まで発向したことから、芳賀氏のてこ入れが功を奏してきたとみられている[98]。また文和元年(1352年)8月3日に奥郡の凶徒が蜂起して蔵王堂に攻め寄せたものの、方切光義らに打ち負かされ、その後大面荘に立て籠ったことがわかっており、上杉方が次第に劣勢となる状況が伝わっている[99]

憲顕の動向については、正平9年/文和3年(1353年)に 信濃佐久郡出身の上杉氏被官の武士・臼田氏の所望により所領の安堵を後村上天皇に取り次いだことが「臼田四郎左衛門尉注進状」にみえており、南朝と提携していることと、臼田氏を配下に引き留めるために腐心していたことがわかっている[100]

臼田四郎左衛門尉□□所望の地、上総国与宇□□彦部五郎兵衛尉跡、右、注進件のごとし、
正平九年二月日
「彼所の事、申し沙汰すべく候、恐々謹言
二月廿三日 憲顕(花押)」[100]

文和4年(1355年)4月4日の「村山隆直軍忠状写」には、憲顕の嫡男・憲将が宇佐美一族らとともに佐美荘顕法寺城(上越市吉川区)で挙兵したが、同月12日に村山隆直らがこれを破って、さらに柿崎城(上越市柿崎区)に立て籠った上杉方を攻めて4月16日に降参させており、上杉氏の越後国支配は崩壊していった[99]。その後、憲将は市川氏をつけて北信濃に進出して勢力拡大を図ったたとみられ、将軍義詮は同年5月26日に信濃守護小笠原長基に対し、憲将と祢津宗貞と戦い注進状を提出したことを褒め、国人等で不参のものに処罰を加えるように命じている[99]

復権

しかし延文3年(1358年)4月30日に尊氏が没し、憲顕を追放しておく障壁が消えた[101]。2代将軍となった義詮は康安2年(1362年)7月に旧直義党の[102]斯波高経を政権中枢に迎え入れ、その子・斯波義将を執事(のちの管領)に任じ、翌年には大内弘世山名時氏を帰服させるなど、父の尊氏が残した体制から大きく舵を切っており、こうした動きの中で幕府の執事だった[103]細川清氏が失脚した直後の康安元年(1361年)10月に憲顕は早くも赦免された[104]貞治元年(1362年)11月6日、憲顕は幕府の管領の義将(治部大輔)から越後国の風間入道跡の地を大友氏時の代官に引き渡すように命じられており、この時に越後国守護として幕府に登用されていたことがわかる[105]

越後国風間入道跡の事、今月二日の御下文に任せ、大友刑部少輔氏時代に沙汰付せらるべきの状、仰せに依って執達件の如し、
貞治元年十一月六日 治部大輔(花押)
上杉民部大輔入道殿[100]

前任の越後国守護の宇都宮氏綱の越後支配を示す文書は延文2年(1357年)以降全くみられず、その間の越後では内乱状態が進行し、宇都宮氏の支配が破綻しつつあったとみられている[106]。また越後国は憲顕の越後守護就任に伴い、鎌倉府の分国から幕府への分国へと戻っており、幕府・鎌倉府の協調の上での憲顕復帰であった[107]

鎌倉府でも憲顕の復帰が薦められた[108]。基氏の下ではじめに執事を務めたのは畠山国清だったが、国清は延文4年(1359年)10月に畿内の南朝勢力の掃討戦を開始した[103]幕府の援助のために上洛して河内・和泉・紀伊各国の守護に任ぜられたが[109]、関東武士との間には例えば岩松氏の根本所領である武蔵国万吉郷(埼玉県熊谷市)を、吉祥寺(国清と弟の畠山義深が創建した伊豆の国南江間にあった臨済宗寺院[110])に寄進するなど没所所領を巡る確執・軋轢が存在しており、康安元年(1361年)11月に関東執事を解任され[111]、これに抵抗して領国の伊豆に籠った国清を基氏が追伐し、国清は奈良へと逃れた[112]。憲顕から国清の没落の知らせを受けた義詮は、康安元年(1361年)9月15日付で「修理大夫入道(国清)没落の事、承り候ひおわんぬ、退治程あるべからず候哉、委しき旨専使いに仰せられ候なり、謹言、」という返書を憲顕に出している[101]。義詮は、国清と懇意だった細川清氏若狭に攻め落とし、三浦高通に所領を安堵して三浦一族を復権させるなど、尊氏の死後に旧直義派との融和を進めて政権の安定を模索しており[113]、後述の憲顕復帰には基氏の他、前述のような幕府の意向が強く働いていた。

国清の後釜の関東執事として高師有(他の高氏と異なり観応の擾乱で直義派として活動した高師秋の子)が就くが、師有は貞治2年(1363年)2月ごろに執事を退任し、『鎌倉大日記』によれば貞治3年(1364年)2月に死去している[114]。幕府と鎌倉府は師有の後任の選定にあたって越後にいる憲顕に白羽の矢を立て[114]、貞治2年(1363年)3月に基氏は憲顕が関東管領に就任することが「多年念願事」であったと述べて、憲顕に関東管領となるように依頼し[115]、鎌倉に召還しようとした。なお、基氏が望んだことは明らかだが実際には京の義詮の意向で憲顕の関東管領復帰が進められたようである[116]

関東管領の事、京都より度々仰せられ候と雖も、時儀難治の間、今に延引候、今時分子細か有るべからず候、時日を廻らさず参らるべく候、是非に就き相講々々異議に及ぶべからず候、且つ天下のために候間、此の如く申し候なり、若し遅々候へば、支え申す仁なども出来すべく候歟、此の事多年念願の事に候間、此の時願に就いて大慶候、委細の旨希源申すべく候、謹言、
三月二十四日 基氏(花押)
民部大輔入道殿[117]

なお「喜連川判鑑」には憲顕が「貞治二年還俗」という朱書の記入があり、憲顕が一時的に還俗していたともみられている[118]

この文書にみえる憲顕の復帰の「難治(難問)」については、鎌倉幕府に法体の執権が存在せず出家する時は役職を引くことが慣例だったことや、室町幕府においても法体の執事・管領がいないこと、同年6月3日に帰洛した使節が基氏の上洛がやめになったことを報告した記録が「後愚昧記」にあることから、憲顕が出家していたことが問題で、それを基氏が義詮を説得しに行こうとしていたのではないかという田辺久子の説がある[119]。これに対して久保田順一は、京都から度々言っているのに鎌倉側で難題となって決断できずに延引したと読めることから、鎌倉府内部の憲顕の復権に批判的な勢力が存在したことではないかと考えている[120]

憲顕の復帰に反対な勢力として特に、憲顕没落後に上野・越後守護となっていた下野国の豪族・宇都宮氏綱がいた[121]。氏綱は両国の守護を改替される結果となるため抵抗しており、特に宇都宮氏の宿老で、越後の守護代を務めて在国していない宇都宮氏に代わり、ほぼ守護と同様の権限を有していた芳賀高貞・高家兄弟の父・芳賀禅可[97]、はじめ越後で上杉方と小競り合いを起こした後[122]、『太平記』によれば鎌倉に上る憲顕を上野で迎え撃とうとした[118]。基氏は8月18日に、憲顕の参上によって氏綱が合戦に及ぼうとしているとして軍勢催促を行った[115]。芳賀禅可は平一揆や白旗一揆を引き連れて[122]武蔵国に出陣した基氏の軍勢に、岩殿山(埼玉県東松山市)・苦林野(同県毛呂山町)で敗退した[115]

足利基氏の館跡(埼玉県東松山市・岩殿山合戦において基氏に使用されたと伝承がある)

さらに基氏軍は追撃の手を休めず、基氏は29日には下野の那須氏に軍勢催促を行い、自身は9月2日までに下野国足利に着陣[123]し、討伐軍を宇都宮城に差し向ける。基氏は小山で下野守護・小山義政の小山氏館もしくは居館に入り、そこへ謝罪に訪れた宇都宮氏綱の弁明を入れてこれを赦免した[124]。この時、芳賀禅可は出奔したという[125]

こうして東国武士の軋轢を呼びながらも、憲顕は関東管領として鎌倉に下向した[115]。尊氏亡き後の幕府・鎌倉府によって代々の東国武家の畠山国清及び宇都宮氏綱が務めていた関東管領職及び越後・上野守護職は公式に剥奪され、さらに憲顕は上野守護となった[126]。貞治2年(1363年)12月19日に基氏が中院通氏に上野国衙職の沙汰付を命じた御行書が、憲顕の上野守護在任を示す最も早い史料である[127]。また相模守護だった河越直重と上野守護を下総と兼任していた千葉氏胤はそれぞれ相模・上総の守護を罷免され、相模守護に三浦高通、上総守護に世良田義政が任命された[126]。基氏は憲顕を中核とする足利一門・譜代家臣と、本拠地高坂に近い岩殿山合戦で基氏側の軍を主導し[128]、伊豆守護を留任されて侍所長官も兼務した平一揆の高坂氏重にみられる東国武士との両派のバランスを取っていた[129]。憲顕は越後守護として京都の義詮の命令を受けながら、身は鎌倉に於いて基氏に仕えるという両属的な立場となり、これこそはこれまでの関東執事とはことなる関東管領の固有の役割であった[125]

守護としての憲顕の越後・上野支配について、越後は貞治2年(1363年)に義詮が憲顕に下した土地の引き渡しを命じた御行書の中で「当国漸く静謐化、その上厳重の寺領なり、軍勢の妨げを(止め)、一円雑掌に討ち渡すべし」と述べられており、憲顕の復帰によってようやく国内が安定に向かってきた様子がうかがえる内容となっている[130]。憲顕は施行命令を守護代として越後に残り支配に当たっていた憲将に命じている[130]。上野では地頭たちの荘郷への侵略が続いており、守護代は長尾景忠(入道教阿)が務め、上野支配の実務を担った[131]

平一揆の乱・死去

復帰後の憲顕は最初こそ関東管領としての政務に取り組んだが、貞治3年(1364年)からは上杉左近将監(甥の上杉顕能か)が上野国守護や関東管領に就き、憲顕の活動は限定的となった[115]。それまでの関東執事が勤めていた、公方の基氏の命令を発するという職務は憲顕ではなく顕能が担い[132]、その一方で憲顕は「醍醐寺文書」に見られるように、憲顕は度々上洛して将軍義詮から関東における案件に依頼を受けるなど、幕府とも近しい距離にあった。久保田順一はこれを義詮が憲顕を通じて関東への介入への糸口を維持していたことに対し、基氏は憲顕に実権を与えず、その影響力を最小限に抑えようとしていたとみられると述べているが[127]、これにはむしろ憲顕が一族に積極的に権限を委譲し、自らは両府の調整役となって政権の安定化を図ろうとしていたものと述べる研究もあり[133]、基氏が対幕府交渉の関東管領を憲顕、東国支配の要となる関東執事に顕能を登用し併置していたという見解もある[132]。鎌倉府に置いて憲顕が有力な人物であったことは、貞治3年(1364年)以降に憲顕の発給文書や需給文書等がみえなくなり、関東管領を辞したと推測される状況でも少しも変わっていなかった[134]

復権後の[135]上杉憲顕花押(鶴岡八幡宮文書・東京大学史料編纂所所蔵を改変[136]])

正平22年/貞治6年(1367年)に基氏が28歳の若さで死去し、翌正平23年/応安元年(1368年)12月7日に幕府将軍の義詮も亡くなると、幕府の将軍職と鎌倉府はそれぞれ幼少の足利義満と金王丸(のちの足利氏満)が継承することとなる[137]。この転換期にも憲顕は幕府・鎌倉府の架け橋となり、基氏死後に京都から佐々木道誉が関東に下向すると、鎌倉からは憲顕が上洛した。基氏が築いた権力と地位はあくまで基氏個人に帰属するもので、親から子へ継承される"家"のものではなかったため、金王丸の将来や東国支配の今後を義詮と協議するためとみられている[138]。その後憲顕は鎌倉に戻り、義詮の死去の知らせをうけると今度は金王丸(氏満)の名代として再び上洛しており、幕府管領の細川頼之と関東管領の上杉憲顕で、幼少の主君を抱えることになった両府の今後の政権運営を相談したものと考えられている[137]

基氏の死後に憲顕は出した文書は7点確認できており、奉書形式・命令内容が多岐にわたること・関東公方(氏満)が幼少で、実質的な政務が行いえなかったこと等から、この期間は憲顕が関東管領に復帰して鎌倉府の政治運営を執り行っていたものと考えられており[139]、復帰後の管領在任期間は応安元年(1368年)3月から同年9月19日に憲顕が死亡するまでと推測されている[140]

応安元年(1368年)3月[141]、憲顕が上洛している最中に、武蔵・相模国の平姓武士で構成される平一揆で元相模守護の河越直重と伊豆守護と侍所長官を兼任する高坂氏重(武蔵平一揆の乱)、そして憲顕の復帰で苦汁を飲まされた宇都宮氏綱が挙兵する[142]。上杉氏と反上杉氏の不安定な関係性を繋いでいたのは基氏の存在であったが[137]、平一揆は国清の失脚、宇都宮氏綱や河越直重らの守護改易、基氏の死により後ろ盾を失っていたため、幕府の支持を背景としている憲顕に反発する形で挙兵に踏み切ったと考えられている(憲明)。同年4月10日付の春屋妙葩の書状より、不穏な動きを察したとみられる[142]憲顕が3月28日に関東に帰国したことがわかっている[143]

しかしこの乱には武蔵以外の武士はほとんど加わらず、それほどの広がりを見せなかった。関東管領を継いだ甥で婿の上杉朝房と能憲が、幼少の足利氏満を擁して6月初旬に河越に出陣し、6月11日に行われた最初の合戦で平一揆側を破り、平一揆は河越城に引き籠った(憲明)。河越城は17日に陥落[142]し、その後討伐軍は牛島(墨田区)で残敵を掃討してから武蔵府中で軍勢を再編し、6月下旬に下野足利に進駐して宇都宮攻めにかかり、9月6日に宇都宮氏綱は講和に応じた[142]。これにより、河越氏高坂氏は本領まで奪われて族滅し、その没収地は上杉一族に配分され、河越城は後に扇谷上杉氏の拠点となった[144]

河越城跡(埼玉県川越市

平一揆の乱の最中には、観応3年(1352年)の武蔵野合戦と同様、隙をついて新田義宗脇屋義治などの南朝勢力が越後・上野の国境で兵を挙げたが、この鎮圧には、憲将・憲春らを派遣し、これを討った。またこの間に憲顕は、金王丸の意思を奉じて寺社への戦勝祈願や關所地の処分などの命令を発しており、その一部は本来は関東管領の職務ではなく、公方の基氏が行使していた職務だったが、憲顕がこれを関東管領の職務に吸収したことで、関東管領は幕府との交渉役に加えて鎌倉公方の意思の代弁者も兼ねる、さらなる大役に発展した[145]

そして憲顕は同年9月19日、宇都宮城陥落を見届けて足利の陣中にて63歳の生涯を閉じた[145]。法名は国清寺桂山道昌。墓所は国清寺(静岡県伊豆の国市)。義堂周信の『空華日用工夫集』によれば、応安7年(1374年)に鎌倉の報恩寺で憲顕の七回忌が行われており、足利氏満も参列している[146]

その後の上杉氏

関東管領は娘婿で犬懸上杉氏の[147]朝房と実子の能憲が就任して幼い氏満の補佐を務め、能憲は憲顕から上野守護を継いだほか、武蔵・伊豆守護にもなり[148]、山内上杉氏の家督を継承した[147]。憲顕の死去に際して嫡男の憲将はすでに亡くなっており、兄弟の最年長者として家督を継承したと考えられている[147]。なお、久保田順一は能憲が山内上杉家の「家督分」である上野国守護に能憲が就いたことを示す確実な史料はなく、宅間上杉家に養子に入った能憲が上野国守護を継承することはできず、憲春が上野国守護だったと述べている[149]。上杉氏の伊豆国守護補任は能憲の養父・重能以来およそ20年ぶりのことで、この後伊豆は上野国とともに山内上杉氏の世襲分国となる[150]憲英は武蔵庁鼻和(埼玉県深谷市)を苗字の地として庁鼻和上杉家の祖となり[151]憲栄の後に猶子となった山内家の上杉憲方の長男・上杉房方が越後上杉家の祖となり[152]、憲顕の子孫も関東に土着した。

憲顕は鎌倉府の政治体制と[153]上杉氏の地位を確立し、晩年に氏綱を打倒したことによって主要な政敵を全て滅ぼし、文字通り関東の第一人者となり[146]、一族繁栄の礎を築いた[62]。貞治2年(1363年)に憲顕が再々度関東管領職についた後からは、同職は上杉氏が独占することとなり[154]、憲顕の所領(武蔵国・伊豆国・その他)は上杉憲方、憲定に継承されて、上杉家所領として確定することになる[54]

人物評

「上杉系図大概」には、憲顕は「京都安全、関東大治、みんなこれ公の計略なり」と記され、室町幕府を作った人物として位置付けられている[62]。一方で、江戸時代の『大日本史論賛』では「上杉憲顕は、叛覆相踵ぎ、人臣の節蕩盡す。而も足利基氏は、能く之を優用し、召して執事と為す。子孫鎌倉に赫奕たり。蓋し其の父憲房、尊氏に功有るを以てなり。」とある[155]

久保田順一は「南北朝内乱を生きぬき、最後は幼主を盛り立てて権力を握り、成功裏に終わった人生のように見えるが、動乱の中でその人生は失意と蹉跌に満ちた者であったことは想像に難くない。建武三年正月の京都合戦での敗北、翌年十二月の北畠顕家との富根川合戦での敗北、観応三年の薩埵山合戦での敗北、さらに父憲房や兄憲藤らの討ち死に、主と仰ぐ直義の死など、多くの悲痛な体験があった。成功ばかりではなく、多くの失敗から立ち直って築いた人生であったことがわかる。このような憲顕の生き方は現代のわれわれにも通じる所がある」と評している[156]

寺院・墓所

  • 国清寺:暦応年間(1338 - 1342年)に伊豆奈古谷に憲顕が上杉氏の菩提寺として天長山国清寺を建立した[157]とも、『鎌倉大草紙』などで応安元年(1368年)に憲顕が父・憲房の菩提を弔うため建立したともいわれる[158]開山は無礙妙謙[159]。『上杉系図大概』によれば憲顕は天岸慧広の弟子であり、慧広に国清寺開山を要請したが断られ、慧広の法弟である妙謙を開山第一祖となしたという[159]。康暦2年(1380年)に五山十刹の准十刹の第十六に位置づけられ[160]至徳4年に関東十刹に列した[161]。寺内に憲顕の「国清寺殿桂山道昌大禅定門」の位牌を有するという[162]
  • 伝上杉憲顕墓:国清寺の森の中にあるが、「伊豆の国市観光ガイド」によれば、これが墓であるかは定かではないという[163]。また、開山の無礙妙謙が貞和4年(1365年)7月に宝篋印塔を建立し、この宝篋印塔の基台が五輪塔の地輪に組み合わされたものが憲顕の墓と伝えられるが、無礙妙謙による宝篋印塔の造立は、憲房の十三回忌を機に国清寺の整備がなされた折のものと推定されている[159]
国清寺(伊豆の国市)
上杉憲顕・畠山国清開基塔
伝上杉憲顕墓(右から2番目)

系譜

凡例

1) 実線は実子、点線は養子
2)『大仁町史 通史編(一)』p.311の「上杉氏略系図」より。
3) 憲顕の子のうち、女子3人と覚翁祖伝は省略。
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上杉重房
 
 
 
 
上杉頼重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重顕頼成憲房女子加賀局
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝定重能上杉憲顕
山内家
憲藤
犬懸家
重行重兼
宅間家
重能重兼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕定
扇谷家
能憲憲将憲堅能憲憲方憲春憲英憲栄


父:上杉憲房

妻:木戸氏:足利荘木戸郷(下野・上野の国境の矢場川の北側と推定される)を苗字とする足利氏の被官が実家とみられ、憲栄以外の男児の母[164]

後妻?:北条時政苗裔:憲栄の母。時政の子孫であるがいずれの出身かは不明で、先妻の木戸氏の没後に娶ったか、晩年に憲顕の許にはいったとみられる[164]

妻子:

  • 憲将:長子。父と共に越後で南朝方と戦うが、上杉清子没時の上洛を除き上野・越後以外での活動は見られず、父の復帰後は越後守護代をつとめた[165]ことから、終始越後支配に当たったと考えられている[166]。貞治6年(1366年)6月没、楞厳院如然と号す[167]
  • 能賢:次子。憲将同様、父の越後平定に従い、その後も越後支配にあたったとみられる。子が見えず早逝したとみられ(法名道寛)、観応2年(1351年)没とする系図もある[168]
  • 能憲:三男・兵部少輔正慶2年(1332年)生まれとみられ、重能の養子となって上杉四家のうち宅間氏を称した。観応の擾乱で養父の重能が殺害された事を恨み、高師直らを摂津で殺害したが、これは宅間上杉家当主としての行動とみられ、その後は朝房とともに鎌倉で関東管領職につき[168]、応安4年(1398年)に報恩寺を創建。永和4年(1378)年4月17日に46歳で死去(道名:道謹)[168]
  • 憲方:四男。建武元年(1334年)生まれ。幼くして修行に入ったが還俗し、応永4年(1394年)10月24日に60歳で死去(法名:明月院天樹道合)したが、憲顕の生前にはほとんど動きが見えない[151]。憲春が持っていた所職・所領をすべて継承して山内家の家督となり、鎌倉山ノ内に居を構えて山内上杉氏の祖となり、名実ともに憲顕の後継者の位置を獲得する[169]
  • 憲春:五男・刑部大輔。能憲死後に関東管領と上野・武蔵・伊豆守護に就き山内上杉家の家督となるが[149]、永和5年(1379年)3月7日、2代鎌倉公方・足利氏満をいさめるため自害(法名:道珎)[151]。しかし「迎陽記」では憲方の出陣以前に自害しており上杉家の家督をめぐる対立があったことが指摘されている[170]
  • 憲英陸奥守。武蔵国庁鼻輪(深谷市)を苗字の地として庁鼻輪上杉氏の祖となる。国済寺常興大宗[151]
  • 憲栄:貞和5年(1349年)生まれ。応永29年(1422年)10月26日死去。夭逝した憲賢の後継者として越後に赴き、憲顕と朝房の譲りを得て越後国守護となるも18歳以前に出家していたようだが、足利義満に召還を命じられて在京を強いられ、28歳の時に許しを得て遁世し伊豆如意輪寺で修行の日々を過ごす(法名:道久大遠)[151]
  • 覚翁祖伝:応永11年(1404年)、白崖宝生(普覚円光)が越後上田荘田中の大義寺で9日間の江湖会を行ったときにこれに参会して白崖から得度受戒し、応永17年(1410年)に関興庵(関興寺)を創建[171]
  • 上杉朝房室:朝房は憲顕が後見的立場にあったため、娘婿としたか。朝房には子がないため弟の朝宗が後継者となっており、室についての動向は不明で、普門院性海了善と号したという[171]
  • 岩松直国室:ほとんど史料がなく、直国の子・満国らの母は「刈田入道篤道女」とみえるため、憲顕女との間には子がなかったと考えられている[171]
  • 了薫:「豆州海龍寺」とみえる系図があり、上野板鼻に設けられた尼寺の海龍寺に入ったとみられる[172]
  • 豆州了省蔵主:伊豆の某寺に入った女性とみられており、伊豆で上杉氏に関わる寺院には大見里如意輪寺(伊豆市八幡)と韮山円成寺(伊豆の国市)があるが、後者にはその後上杉憲方女(理通)、上杉憲定女(理正)、上杉憲実女(理慶)ら上杉家当主の娘が入っているため、これは円成寺の可能性がある[173]

関連作品

小説
  • 茜嶺治『鎌倉円覚寺紅蓮抄』(MBC21、1999年)
  • アグニュー恭子『世尊寺殿の猫』(論創社、2024年)
漫画

注釈

  1. ^ 久保田順一は「尊卑分脈」や『続群書類従』に「暦応元年三月十五日於信州討死」とあることから信濃国での戦死としている。[10]
  2. ^ 上杉氏の根本被官・長尾氏で、こののち越後守護代や上野守護代として活動する憲顕の右腕というべき腹心。[54]
  3. ^ 藤原氏氏寺[61]であり、上杉氏は勧修寺流藤原氏の一族である[62].
  4. ^ 力石氏は信濃更級郡力石の出身、早期に上杉の被官となった武士[85]

脚注

  1. ^ 大日本史料総合データベース「関東執事民部大輔従五位上上杉憲顕卒す、尋で足利金王丸、(氏満、)上杉能憲・同朝房を執事と為す、」” (PDF). 2025年5月6日閲覧。
  2. ^ 江戸時代以降に作成された上杉氏の系図では越後守に補任されたとする記述がみられるが、越後の支配者である上杉氏を強調する目的で江戸時代に創作されたとみられている(木下聡「上杉氏の官途について」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7))。
  3. ^ 黒田 & 201306, p. 83.
  4. ^ a b 水野 2014, p. 200.
  5. ^ a b c d e f g 久保田 2012, p. 44.
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  11. ^ 久保田 2012, p. 48.
  12. ^ 久保田 2012, pp. 48–49.
  13. ^ 久保田 2012, p. 65.
  14. ^ 黒田 & 201306, p. 85.
  15. ^ 久保田 2012, pp. 50–51.
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  29. ^ 久保田 2012, pp. 59–60.
  30. ^ 久保田 2012, p. 60.
  31. ^ 久保田 2012, p. 61.
  32. ^ 久保田 2012, pp. 61–62.
  33. ^ 黒田 & 201306, p. 206.
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  54. ^ a b 久保田 2012, p. 96.
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  56. ^ 久保田 2012, p. 76.
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参考文献

関連項目




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