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みんき‐そしゅん【明極楚俊】

読み方:みんきそしゅん

[1262〜1336]中国元代の臨済宗の僧。1330年元徳2)来日し摂津国広厳寺開き建長寺南禅寺建仁寺に歴住した勅号仏日焔慧禅師


みんきそしゅん 【明極楚俊】

楚俊

明極楚俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 01:29 UTC 版)

明極楚俊
景定3年 - 建武3年9月27日
1262年 - 1336年10月31日
諡号 仏日燄慧禅師
生地 慶元府昌国県
没地 京都建仁寺
宗派 臨済宗(燄慧派)
寺院 建長寺南禅寺建仁寺広厳寺
虎巌浄伏
著作 明極和尚語録
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明極楚俊(みんき そしゅん)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、から日本へ渡来した禅僧仏日燄慧禅師。俗姓は黄。法諱は楚俊。号は明極。

人物・来歴

元での禅名

中国南宋景定3年(1262年)、慶元府昌国県で生まれる。咸淳9年(1273年)、12歳の時に霊巌寺の竹牕喜を拝して剃髪受具(出家)。育王山横川如珙に参じて悟りを得る。その後、霊隠寺虎巌浄伏の門に移って侍香として仕え、虎巌浄伏の法を嗣ぐ。また天童寺に赴いて止泓道鑑に侍して蔵鑰となり、その後金陵(南京)の奉聖寺に出世。瑞巌寺・普慈寺の両寺に歴住した後、婺州双林寺主となるなど、すでに元の禅宗界において高名な存在であった。径山(きんざん)の前堂首座(しゅそ)として居していた天暦2年(1329年、日本では嘉暦4年)、日本の大友貞宗からの使節に招請され渡日を受諾。竺仙梵僊を伴い、天岸慧広物外可什雪村友梅と同船して5月に博多へ入港した。このときすでに68歳であった。

来日後

元徳2年(1330年)、鎌倉幕府に招かれて関東へ下向する途中、京都後醍醐天皇に拝謁して法問を受け、仏日燄慧禅師の号を賜る。同年2月、得宗北条高時の要請で建長寺住持となり、竺仙が前堂首座としてこれを支えた。この頃、元弘の変で流謫した後醍醐天皇の復位を予言したという。変後、はたして復位した後醍醐天皇に招かれて元弘3年(1333年)に上京、南禅寺第十三世として迎えられる。翌建武元年(1334年)には南禅寺は京都五山の第一とされた。同年、建仁寺に移り、第二十四世となる。また摂津広厳寺を開山。建武3年9月27日1336年10月31日)、建仁寺方丈にて入寂。享年75。遺偈に「七十五年 一條生鐵 大地粉碎 虚空迸裂」。著書に『明極和尚語録』があり、法嗣に懶牛希融・草堂得芳らがおり、明極派もしくは燄慧派と称される。

参考文献

出典

関連項目



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