岩松直国
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岩松 直国(いわまつ ただくに)は、南北朝時代の武将。岩松氏当主。岩松氏の中興の祖とされる人物。
- ^ 元服の年を建武元年(1334年)とした場合の逆算による。
- ^ a b 『系図纂要』。
- ^ a b 『大日本史料』六之二 P.198 掲載の「岩松系図」。
- ^ 『尊卑分脉』。当時の古文書にも「岩松治部少輔」と記されている(本文参照)。よって、『系図纂要』に掲載の「治部大輔」は誤りであろう。
- ^ a b 『系図纂要』第10冊下の世良田氏系図、『群馬・五』P.888「長楽寺系図」および P.915「新田岩松系図」には、義政が岩松政経の長男であったことが明示されている。『系図纂要』の岩松氏系図にも政経の長男に義政を載せているが、義政は庶長子であったため、岩松家は弟の経家が継承し、義政自身は世良田氏に養子入りすることになったという。小国、2001年、P.64-66に拠る。
- ^ 『諸家系図纂』所収「上杉系図」による。尚、「上杉家本 上杉系図」にも憲顕の女子の一人に「岩松妻」との注記がある。いずれも『大日本史料』六之三〇 P.59-60に掲載。
- ^ a b c 小国、2001年、P.64。
- ^ 『大日本史料』六之二 P.195-197。『南北朝遺文』関東編1 P.79-80、186号・187号文書「尼妙蓮譲状写」。
- ^ 阪田、1994年、p.3。『南北朝遺文』関東編1 P.80。
- ^ 厳密には岩松氏は足利一門・畠山氏の支流にあたるため、新田氏の一族ではないが、『尊卑分脉』・『系図纂要』以下の系図類によれば直国の父・政経は「新田下野守(=得川頼有)猶子」であったといい、形式上は新田一門となっていたことになる。
- ^ 以上、阪田雄一の見解による(阪田、1994年、p.2-3)。
- ^ 『系図纂要』の経家の項に「自父政経譲与岩松家督」とある。
- ^ 『群馬・通』P.346。『系図纂要』によれば、経家のほか、兄弟の本空と頼宥も同時に戦死したというが、頼宥に関してはその後観応の擾乱に至るまでの生存が確認できる(備考を参照のこと)。
- ^ 阪田、1994年、p.3。典拠は『正木文書』。
- ^ 同日付「幕府執事高師直奉書」(『正木文書』)。
- ^ 阪田、1994年、p.3。
- ^ 同日付「足利直義御教書」(『正木文書』)。
- ^ 同日付「足利基氏寄進状」(『神田孝平氏旧蔵文書』)。
- ^ 同日付「足利基氏御教書写」(『正木文書』、『南北朝遺文』関東編4 P.267、3033号文書)。
- ^ 阪田、1994年、p.4。峰岸純夫「室町時代東国における領主の存在形態」(所収:同氏『中世の東国 地域と権力』、東京大学出版会、1989年)。
- ^ 阪田、1994年、p.4。
- ^ 小国論文参照。
- ^ 小国論文参照。典拠は『喜連川判鑑』、『鎌倉大日記』、『常楽記』、『後鑑』所収萬澤文書。
- ^ 小国、2001年、P.61。
- ^ 今谷明・藤枝文忠 編 『室町幕府守護職家事典』上(新人物往来社、1988年)、岩松氏の項。
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