深谷上杉家
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深谷上杉家(ふかやうえすぎけ)は、室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州管領に任じられた。
扇谷上杉家と共に武蔵国で割拠していたが、扇谷上杉家の上杉朝定が北条氏康に敗れ滅亡し、後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、憲英から数えて7代目の憲盛の代に、後北条氏に降伏した。
以後は後北条氏の傘下となったが、憲盛長男の氏憲の代に小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われた。氏憲は子息の憲俊と共に信州に隠居したが、憲俊は岡山藩士となった。また氏憲の三男憲国は水戸藩士となり、娘が松平頼利(徳川頼房の六男)に嫁いでその間に宍戸藩主松平頼道をもうけた。
また、憲盛の次男・吉次の子孫は江戸幕府に仕え5百石の旗本となった(深谷氏)。
幕末の子孫である上杉盛房(深谷盛房)は、30歳で小納戸役に任じられたが、50歳を超えたのち1819年(文政2年)二の丸留守居役、1831年(天保2年)に京都町奉行と歴任し、1837年(天保8年)に66歳で勘定奉行、1844年(弘化元年)に73歳で旗本最高役職の大目付(役高3000石)に昇進し[1]、1854年(安政元年・83歳6月)に87歳になるまで勤めた[2]。海防掛も兼任しており、1853年7月(嘉永6年)のいわゆる「黒船来航」の際の幕閣会議にも86歳で参加し、穏便に済ませる案を提示した。
庶流に深谷氏、久保田氏、小久保氏、久下氏、市田氏。代表的な家臣には岡谷氏、秋元氏、井草氏、上原氏らがいる。
歴代当主
系図
主要拠点
- 深谷城
- 庁鼻和城
深谷上杉家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 12:33 UTC 版)
「深谷上杉家」も参照 山内上杉家の上杉憲顕の実子である上杉憲英が「庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)」を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。 深谷上杉家7代当主の上杉憲盛は、永禄12年(1569年)の越相同盟の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ると謙信に属す。憲盛の嫡男・氏憲は、父の死後は後北条氏に付き、天正6年(1578年)には北条氏政の養女を正室に迎え、氏政の猶子となる。小田原征伐で後北条氏が敗れた後は、重臣の秋元長朝らが深谷城を開城して豊臣軍に降伏、氏憲は上杉景勝の所領である信濃国更級郡(現・長野市)にて隠居した。氏憲の嫡男・深谷憲俊は景勝から仕官の誘いがあったとも云われるが、1617年に播磨平福藩主の池田輝興に仕えた。 憲盛の次男・吉次の子孫は、徳川家に出仕して500石の旗本となり、上杉盛房は、天保8年(1837年)に70歳で勘定奉行、弘化元年(1844年)に77歳で大目付(役高3000石)に昇進して、安政元年(1854年)に87歳になるまで勤めた。
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