打出浜の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/13 20:05 UTC 版)
| 打出浜の戦い | |
|---|---|
| 戦争:観応の擾乱 | |
| 年月日:正平6年/観応2年2月(1351年3月) | |
| 場所:摂津国打出浜 | |
| 結果:直義軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 直義軍(南朝) | 尊氏・高師直軍(北朝) | 
| 指導者・指揮官 | |
|  足利直義 |  足利尊氏  高師直   高師泰   | 
| 戦力 | |
| - | - | 
| 損害 | |
| 不明 | 不明 | 
打出浜の戦い(うちではまのたたかい)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。正平6年/観応2年2月(1351年3月)、摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)において、足利直義の軍勢と足利尊氏・高師直の軍勢の間で戦われた。
背景
室町幕府内で足利尊氏の執事高師直と、弟の足利直義の対立が深刻化した。一旦は師直派が有利となり、直義は出家し実権を失い、直義派の上杉重能と畠山直宗は配流先で師直の配下に暗殺された。1350年、尊氏は九州で兵を挙げた直義の養子足利直冬を討つため、師直らを伴って出陣した。その頃京都を脱出した直義は南朝に降伏し、師直追討のための兵を挙げた。1351年1月、直義派は京都に攻め込み、留守を預かる足利義詮を破った。尊氏は備後から兵を帰し、直義勢と戦いとなった。
経過
尊氏・師直は直義勢を難なく打ち破れると考えていたようだが、師直に反感を持つ多くの武将が直義に従っていたため苦戦に陥る。尊氏は播磨に兵を引き、高師泰らの軍勢と合流し再起を図る。その間に、尊氏勢の中から直義勢に寝返る武将が現れ始めた(光明寺合戦)。2月17日(3月15日)、尊氏軍は直義軍と摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で決戦し、数の上では優位であったが、戦意に勝る直義軍の前に、あっさりと敗北した。2万はいた軍勢が1000足らずにまで打ち減らされた。結局、師直・師泰兄弟の出家を条件に尊氏と直義の和議が成立した。2月26日(3月24日)早朝、尊氏は師直兄弟を伴って京都に向かった。しかし、師直兄弟は摂津から京都への護送中に、怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲(師直に殺害された重能の養子)と三浦八郎左衛門らの軍勢により、摂津の武庫川(兵庫県伊丹市)で一族とともに殺害された。
影響
直義派は高兄弟の排除に成功し、主導権を奪還した。尊氏派・直義派は一旦は和睦したものの対立は収まらず、両者は再び戦いを始めることとなる。滅亡寸前にまで追い込まれていた南朝だったが、直義の降伏をきっかけに以後も北朝方武将の降伏が続き、南北朝の動乱が長引いた。
参加人物
備考
- 高師直らが殺害された場所は、武庫川を過ぎたあたりと記録されている[1]。正確な地点は不明であるが[1]山田村(現在の伊丹市山田)付近と伝えられ[2]、江戸時代の時点で同村の西国街道沿いに「師直塚」があった[1][2]。1915年に山田村の村人が「師直塚」の石碑を建てたが、その後伊丹市池尻一丁目(国道171号沿い)に移されて存在している[1]。
- 「打出」と呼ばれた地域では、建武3年(1336年)に足利尊氏軍と建武政権軍との戦いが発生しており、足利軍が敗走した(豊島河原合戦参照)。この戦いで足利軍を打ち破ったのは楠木正成と語られる[3]。この戦闘は「打出合戦」と呼ばれるが[4]、「打出浜の戦い」と呼ぶこともある[3]。この戦いを記念するものとして、1935年に現在の芦屋市楠町(国道2号沿い)に「大楠公戦跡」の碑が立てられている。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d “高師直(こうのもろなお)の塚”. 伊丹市. 2025年10月14日閲覧。
- ^ a b “江戸時代の村 山田村”. 伊丹市立伊丹ミュージアム. 2025年10月14日閲覧。
- ^ a b “我がまち 芦屋”. 芦屋市シルバー人材センター. 2025年10月14日閲覧。
- ^ 芦屋市立美術博物館 [@ashiyabihaku] (19 May 2020). “【歴史その(7) 1 打出が『太平記』の舞台だった】”. X(旧Twitter)より2025年10月14日閲覧.
関連項目
固有名詞の分類
- 打出浜の戦いのページへのリンク

 
                             
                    



