光明寺合戦とは? わかりやすく解説

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光明寺合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/22 02:40 UTC 版)

光明寺合戦

光明寺合戦本陣跡の石碑
戦争観応の擾乱
年月日正平6年/観応2年2月(1351年3月)
場所播磨国光明寺城
結果:直義軍の勝利
交戦勢力
直義軍(南朝) 尊氏・高師直軍(北朝)
指導者・指揮官
足利直義

石塔頼房
上杉憲顕

足利尊氏

高師直
高師泰
赤松則祐

戦力
五千余騎 一万騎
損害
- -
南北朝の内乱

光明寺合戦(こうみょうじかっせん)は、南北朝時代観応の擾乱における合戦の一つ。正平6年/観応2年2月(1351年3月)、播磨国光明寺城兵庫県加東市光明寺)において、足利直義の軍勢と足利尊氏高師直の軍勢の間で戦われた。

背景

以下、日付は旧暦

室町幕府内で尊氏の執事高師直と、弟の直義の対立が深刻化した。一旦は師直派が有利となり、直義は出家し実権を失い、直義派の上杉重能畠山直宗は配流先で師直の配下に暗殺された。観応元年(1350年)、尊氏は九州で兵を挙げた直義の養子足利直冬を討つため、師直らを伴って出陣した。その頃京都を脱出した直義は南朝に降伏し、師直追討のための兵を挙げた。観応2年(1351年1月)、直義派は京都に攻め込み、留守を預かる足利義詮を破った。尊氏は備後国から兵を帰し、直義勢と戦いとなった。

経過

観応2年(1351)2月4日、尊氏を討つべく、石塔頼房は五千余騎で光明寺に陣を構え、八幡(京都府)の直義に援軍を求めた。それを知った尊氏は、援軍の来る前に打ち破ろうと一万騎を率い光明寺城を囲んだ。

尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を敷いた。仁王堂や東坂で激戦が展開され、両軍の対峙は10日におよんだがいずれも尊氏軍が敗れた。城の後詰がせまったので尊氏軍は摂津国まで軍をひいた。

影響

光明寺合戦の間に、尊氏勢の中から直義勢に寝返る武将が現れ始めた。2月17日、尊氏軍は勢いに乗る直義軍と摂津国打出浜兵庫県芦屋市)で激突することになる。(打出浜の戦い

参加人物

足利尊氏勢
足利尊氏、足利義詮、高師直、高師泰、赤松則祐
足利直義勢
足利直義、石塔頼房、上杉憲顕

逸話

太平記」巻第二十九「光明寺合戦の事付師直怪異の事」には下記の逸話が記載されている。

高師直の陣中に、無文の白旗が一流れ天より降って来た。よくよく見れば旗ではなく、反古(書き損じの紙)を2,30枚継ぎ集めたもので、裏に二首の和歌が書いてあった。

吉野山 峯の嵐の はげしさに 高き梢の 花ぞ散り行く

限りあれば 秋も暮れぬと 武蔵野の 草はみながら 霜枯れにけり

師直は近くの者に、「この歌の吉凶はどうであろう」と訊ねた。『高き梢の 花ぞ散り行く』とあるは、高家の人が亡ぶということであろう。しかも『吉野山 峯の嵐の はげしさに』とあるのも、先年蔵王堂を焼いた罪を一人で被るという意味だ。『武蔵野の 草はみながら 霜枯れにけり』とあるも、師直(武蔵守)の領地の国なれば、どれも不吉な歌だと恐ろしく思ったが、後難を恐れて皆「おめでたい歌でございます」と答えた。


関連項目




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