光明寺合戦
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光明寺合戦 | |
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![]() 光明寺合戦本陣跡の石碑 |
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戦争:観応の擾乱 | |
年月日:正平6年/観応2年2月(1351年3月) | |
場所:播磨国光明寺城 | |
結果:直義軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
直義軍(南朝) | 尊氏・高師直軍(北朝) |
指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
五千余騎 | 一万騎 |
損害 | |
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光明寺合戦(こうみょうじかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。正平6年/観応2年2月(1351年3月)、播磨国光明寺城(兵庫県加東市光明寺)において、足利直義の軍勢と足利尊氏・高師直の軍勢の間で戦われた。
背景
以下、日付は旧暦。
室町幕府内で尊氏の執事高師直と、弟の直義の対立が深刻化した。一旦は師直派が有利となり、直義は出家し実権を失い、直義派の上杉重能と畠山直宗は配流先で師直の配下に暗殺された。観応元年(1350年)、尊氏は九州で兵を挙げた直義の養子足利直冬を討つため、師直らを伴って出陣した。その頃京都を脱出した直義は南朝に降伏し、師直追討のための兵を挙げた。観応2年(1351年1月)、直義派は京都に攻め込み、留守を預かる足利義詮を破った。尊氏は備後国から兵を帰し、直義勢と戦いとなった。
経過
観応2年(1351)2月4日、尊氏を討つべく、石塔頼房は五千余騎で光明寺に陣を構え、八幡(京都府)の直義に援軍を求めた。それを知った尊氏は、援軍の来る前に打ち破ろうと一万騎を率い光明寺城を囲んだ。
尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を敷いた。仁王堂や東坂で激戦が展開され、両軍の対峙は10日におよんだがいずれも尊氏軍が敗れた。城の後詰がせまったので尊氏軍は摂津国まで軍をひいた。
影響
光明寺合戦の間に、尊氏勢の中から直義勢に寝返る武将が現れ始めた。2月17日、尊氏軍は勢いに乗る直義軍と摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で激突することになる。(打出浜の戦い)
参加人物
- 足利尊氏勢
- 足利尊氏、足利義詮、高師直、高師泰、赤松則祐
- 足利直義勢
- 足利直義、石塔頼房、上杉憲顕
逸話
「太平記」巻第二十九「光明寺合戦の事付師直怪異の事」には下記の逸話が記載されている。
高師直の陣中に、無文の白旗が一流れ天より降って来た。よくよく見れば旗ではなく、反古(書き損じの紙)を2,30枚継ぎ集めたもので、裏に二首の和歌が書いてあった。
吉野山 峯の嵐の はげしさに 高き梢の 花ぞ散り行く
限りあれば 秋も暮れぬと 武蔵野の 草はみながら 霜枯れにけり
師直は近くの者に、「この歌の吉凶はどうであろう」と訊ねた。『高き梢の 花ぞ散り行く』とあるは、高家の人が亡ぶということであろう。しかも『吉野山 峯の嵐の はげしさに』とあるのも、先年蔵王堂を焼いた罪を一人で被るという意味だ。『武蔵野の 草はみながら 霜枯れにけり』とあるも、師直(武蔵守)の領地の国なれば、どれも不吉な歌だと恐ろしく思ったが、後難を恐れて皆「おめでたい歌でございます」と答えた。
関連項目
- 光明寺合戦のページへのリンク