二頭政治から観応の擾乱へ
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「足利直義」の記事における「二頭政治から観応の擾乱へ」の解説
尊氏は光明天皇を擁立し、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへの諮問のもと『建武式目』を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。延元3年/暦応元年(1338年)に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。 興国2年/暦応4年(1341年)3月24日には、出雲・隠岐両国守護の有力武将塩冶高貞を謀反人と責め、桃井直常・山名時氏を主将とする追討軍を派兵して数日のうちに自害に追い込んだ(『師守記』暦応4年3月25日条および29日条)。鈴木登美恵や亀田俊和らの主張によれば、高貞謀反が事実の可能性は十分にあり、皇族早田宮出身という説もある妻を介して、義弟(義兄?)に当たる南朝公卿で九州方面軍を指揮する源宗治らと内通していたのではないかという。 しかし、正平3年/貞和4年(1348年)頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、正平4年/貞和5年(1349年)に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、三条坊門殿の邸宅を鎌倉から上洛してきた足利義詮に譲って恵源(えげん)と号した。 翌 正平5年/観応元年(1350年)、尊氏・師直らが直義の養子直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている。 一方、京都の北朝は直義追討令を出すに至る。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、正平6年/観応2年(1351年)に播磨国光明寺城(光明寺合戦)や摂津国打出浜(兵庫県芦屋市)で尊氏方を破る(打出浜の戦い)。尊氏方の高師直・師泰兄弟とその一族は2月26日、直義派の上杉能憲に殺害された。 師直兄弟を闇討ちで排除した後は、尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰したが、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、ついに尊氏父子は出陣と称して京都から出ていきそれぞれ近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めた。それを見た直義は8月1日に京都を脱して北陸、信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。これに対して尊氏父子は南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令を出してもらう。 しかし、駿河国薩埵山(静岡県静岡市清水区)、相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで尊氏に連破され、正平7年(1352年)1月5日、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、同年2月26日に急死した。『太平記』巻第三十では「俄に黄疸と云ふ病に犯され、はかなく成らせ給ひけりと、外には披露ありけれ共、実には鴆毒の故に、逝去し給ひけるとぞささやきける」と、毒殺の噂が流れたことを記述している。研究者の中には毒殺説を支持するものも多いが、峰岸純夫、亀田俊和は自然死であると見ている。直義が没した日は奇しくも、自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たり、早世した実子・如意丸(如意王)の一周忌の翌日でもあった。享年47。 観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。 なお、尊氏はその死の直前の正平13年/延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された。正平17年/康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡宮(現・御所八幡宮社)を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている。
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