二頭政治か否か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)
観応の擾乱前の室町幕府の政治体制については、幕府の九州探題(九州方面軍総指揮官)を務めた今川了俊の『難太平記』に、世人は尊氏を「弓矢の将軍」と称し、直義は「政道」を任されたとあることから、一般に、擾乱前は、軍事を担当とする足利尊氏と政治を担当する足利直義の二頭政治が取られていたという理解が定説となっている。第二次世界大戦後、佐藤進一はこの説をさらに深化させ、尊氏は主従制的支配権(人を支配する権限)を、直義は統治的支配権(領域を支配する権限)を持っており、質的差異があったのではないか、と指摘した。 これに対し、呉座勇一は、実際のところ幕府の運営のほとんどは直義を実質の最高権力者として行われており、「二頭政治」という呼び方では、両者の権限が拮抗していたかのような誤解を与えるのではないか、『難太平記』のも両者の関係にほころびが生じてからの描写であり、平時のものとは言い難い、と指摘した (ただし、実際は『難太平記』に見えるように、建武3年の北条時行との箱根山合戦以来、尊氏は「天下」「御当家」を直義に譲り渡しており、この頃から尊氏と直義の間で役割の分担が確認されていた)。亀田俊和も呉座に同意し、(足利義満の「室町殿」体制になぞらえて)下京三条坊門高倉に住む直義を中心とする「三条殿」体制と言って良いのではないか、とした。また、亀田は室町幕府初期の政治体制は建武政権末期の政治体制(後醍醐天皇が恩賞を与え、その他おおよその政務は雑訴決断所が行う)と似通っていることを指摘し、尊氏は後醍醐天皇の施策を意識的に継承し、尊氏が後醍醐天皇の権限(恩賞給付能力、政体の新たな力を創造する能力)を、直義が雑訴決断所の権限(政治全般を行い、政体を保全する能力)を担当することになったのではないか、とした(ただし、尊氏や直義が理想としたのは建武政権ではなく、建武式目に見えるように「北条義時・北条泰時の執権政治」である)。
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