観応の擾乱と高師直の没落
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「観応の擾乱と高師直の没落」の解説
詳細は「観応の擾乱」を参照 その後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。 南朝武将として台頭した直義は、正平6年/観応2年(1351年)1月の第三次京都合戦、次いで2月の打出浜の戦いで高師直に勝利した。師直・師泰兄弟とその一族郎党は、2月26日、護送中に上杉能憲らに暗殺され、 鎌倉時代から代々足利氏執事を務めてきた高氏は没落した。
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