観応年間の出来事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 07:40 UTC 版)
元年(南朝正平5年、1350年) 10月、足利直義が京都を脱出する。足利尊氏・高師直らは足利直冬追討のため九州へ下向する。 11月、直義が師直・師冬討伐を名目に兵を集める。光厳上皇が直義追討の院宣を渙発。 12月、直義が南朝に講和条件を示して帰順する。尊氏が福岡(現在の岡山県瀬戸内市)から引き返す。 2年(南朝正平6年、1351年) 1月、桃井直常が北国より入京し、尊氏らを播磨国へ駆逐する。高師冬が南朝に攻められ甲斐国で自殺する。 2月、直義が摂津国打出浜で尊氏方を破り、高兄弟の引退を名目に和睦する。上杉能憲が高兄弟を護送中に謀殺する。 3月、足利直冬を鎮西探題に任命する。 10月、尊氏が南朝へ降伏し、南朝から直義に対する追討令が出る。 11月、崇光天皇を廃位、「観応」が廃され、正平一統が成る。 この頃高麗国沿岸で倭寇が活動し始める。 3年(南朝正平7年、1352年) 閏2月、尊氏の将軍職を解く。北畠親房はじめ南朝方の諸臣・諸将が入京、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と崇光の皇太子直仁親王を南朝本拠の賀名生へ拉致する。 3月、正平一統が破談、尊氏が「観応」の復活を宣言する。 8月、光厳・光明両上皇の国母・広義門院が治天の君となって伝国詔宣を行い、崇光上皇の弟・弥仁親王が践祚する(後光厳天皇)。
※この「観応年間の出来事」の解説は、「観応」の解説の一部です。
「観応年間の出来事」を含む「観応」の記事については、「観応」の概要を参照ください。
- 観応年間の出来事のページへのリンク