観応の擾乱、直義派とは? わかりやすく解説

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観応の擾乱、直義派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 08:07 UTC 版)

桃井直常」の記事における「観応の擾乱、直義派」の解説

正平5年/観応元年1350年)に関東では南朝勢力討滅されたころから室町幕府内で尊氏執事高師直尊氏の弟直義との間に対立がおこり、10月には武力衝突発展していった。(観応の擾乱)。この対立尊氏直義との抗争変貌した兄弟である桃井直信高師直により所領が宛がわれ正木文書新田岩松文書内の観応元年1350年12月23日付の『高師直奉書』に岩松直国安堵状世良田右京亮続いて桃井刑部大輔名で直信の名前が史料にみえ、直義方から尊氏武将への引き込み勧誘工作とみられる。直常は直義派の有力武将として北陸から入京して翌正平6年/観応2年1351年)の打出浜の戦い尊氏高師直らを追い引付頭人補任された。しかし尊氏直義抗争再発し、再び密かに上野国戻り勢多郡島城築き、(赤城山)麓を拠点尊氏方と戦った出身地桃井一帯一族尊氏方の桃井義盛の領地となっていた事、近隣寺社勢力榛名神社社家尊氏方に味方していた為、拠点急峻な崖にある赤城山麓に勢力持った考えられる正平6年/観応2年1351年正月15日には直義属して越中の兵を率いて近江坂本至り京都入り足利義詮と戦う。また上野国に戻り直義方の長尾大とともに上野国那波庄(伊勢崎市名和)近辺利根川辺り尊氏方の宇都宮氏綱芳賀禅可益子貞正山上氏佐野氏らと戦い(上州桃井合戦)敗れ信濃国に徹兵し、11月駿河国薩タ山で12月には相模国早河尻で尊氏軍と戦い直義敗れて降伏した尊氏降伏した直義翌年鎌倉2月没すると、直常は行方不明となった

※この「観応の擾乱、直義派」の解説は、「桃井直常」の解説の一部です。
「観応の擾乱、直義派」を含む「桃井直常」の記事については、「桃井直常」の概要を参照ください。

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