義堂周信とは? わかりやすく解説

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ぎどう‐しゅうしん〔ギダウシウシン〕【義堂周信】

読み方:ぎどうしゅうしん

[1325〜1388]南北朝時代臨済宗の僧。土佐の人。号は空華(くうげ)道人夢窓疎石(むそうそせき)に師事足利義満招かれ建仁寺南禅寺などに住した初期五山文学代表者一人詩文集「空華集」、日記空華日工(にっく)集」など。


義堂周信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 08:16 UTC 版)

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義堂周信
正中2年閏1月16日 - 元中5年/嘉慶2年4月4日
1325年3月1日 - 1388年5月10日
法名 周信
空華道人
生地 土佐国高岡
宗旨 臨済宗
夢窓疎石[1]
弟子 大椿周亨無言昌謹、菊隠中亮、月潭中円、大基中建など
著作 『義堂和尚語録』、『空華集』、『空華日用工夫略集』など

義堂周信(ぎどう しゅうしん)は、南北朝時代から室町時代臨済宗である。「義堂」は道号、「周信」は法名であり、別に「空華道人」とも号する。

経歴

土佐国高岡(現:高知県高岡郡津野町)の生まれ。1338年、14歳で剃髪、はじめ台密を学ぶ、後禅宗に改宗し上京し夢窓疎石の門弟となる。このとき「周信」と安名された。

1359年(延文4年)に幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方足利基氏に招かれて鎌倉へ下向し1380年(康暦2年)まで滞在した。基氏や関東管領上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めた。この間、臨川寺の五山昇位[2]問題や渡諷経事件[3]の解決に尽力しその公明正大、厳正中立な態度で各方面に感銘を与えた。帰京後、3代将軍足利義満の庇護のもと相国寺建立を進言し、建仁寺住職、1386年には南禅寺の住職となり、等持寺住職も務めた。

春屋妙葩絶海中津と並ぶ、中国文化に通じた五山文学を代表する学問僧とされる。

遺墨

脚注

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  1. ^ 人名規範資料庫、2019年1月22日閲覧。
  2. ^ ともに夢窓疎石の弟子である春屋妙葩と龍湫周沢の昇格争い
  3. ^ 円覚寺の仏門教徒、と建長寺の大覚門徒の勢力争い

参考文献

関連項目

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