上杉宗房とは? わかりやすく解説

上杉宗房

読み方うえすぎ むねふさ

江戸中期大名米沢生。上杉吉憲次男。初名は勝豊、のち政千代享保19年(1734)兄宗憲の嗣となり、遺領を継ぐ。まもなく徳川家重拝謁し、諱字を賜い、宗房と名のった。この時従四位下侍従に叙任され民部大輔兼ねた延享3年(1746)歿、29才。

上杉宗房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/17 01:07 UTC 版)

 
上杉宗房
上杉宗房像(上杉家歴代藩主像より、上杉博物館蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 享保3年6月17日1718年7月14日
死没 延享3年8月12日1746年9月26日
改名 政千代(幼名)→勝豊→宗房
戒名 英徳院殿法印権大僧都雄心
官位 従四位下民部大輔侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重
出羽米沢藩
氏族 上杉氏
父母 父:上杉吉憲、母:山中氏(祥寿院)
養父:上杉宗憲
兄弟 宗憲、宗房畠山義紀重定
正室:徳川宗春養女・近姫松平義方娘)
養子:重定
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上杉 宗房(うえすぎ むねふさ)は、江戸時代中期の大名出羽国米沢藩7代藩主。山内上杉家23代当主。

経歴

5代藩主・上杉吉憲の次男として誕生した。『寛政重修諸家譜』では正徳2年(1712年)生まれとしているが、有力なのは『上杉家御年譜』の享保3年(1718年)6月17日生まれという説である[1]。享保19年(1734年)5月13日、兄・宗憲が嗣子無くして死去したため、その養嗣子となって同年6月28日に家督を継いだ。同年12月11日、従四位下・侍従兼民部大輔に叙任された。藩主になるまでの初めの名乗りは勝豊(かつとよ)であったが、就任後は兄同様、8代将軍徳川吉宗より偏諱を受けて宗房と改めた[2]元文元年(1736年)に米沢藩に初入部する。元文2年(1737年)に尾張藩7代藩主・徳川宗春の養女(松平義方の娘)である近姫と婚姻する。

宗房の代になると、藩財政の窮乏だけでなく年貢の未納なども深刻となり、宗房は百姓に対して元文3年(1738年)に年貢の当年分完納を条件とした7か月分未納分延納許可などによる対策を講じた。また、元文4年(1739年)には藩士の借り上げ分の一部返済を条件とした倹約令を出して藩財政を再建しようとしたが、あまり効果はなかった。

寛保2年(1742年)に置賜郡3万6千889石(34か村)と、村山郡1万4千948石(13か村)が米沢藩預かり領となり、高畠と漆山に陣屋を設ける。

延享3年(1746年)、兄と同じく嗣子無くして米沢にて死去した。享年29。墓所は米沢市内にある。跡を同母弟の勝政改め重定が継いだ。

脚注

  1. ^ 文献については『三百藩藩主人名事典一』参照。[要ページ番号]
  2. ^ 兄と同名になるのを避けるため、家祖の上杉重房以来上杉氏通字の一つとして使用されてきた「房」の字を2文字目に用いている。

参考文献

  • 『三百藩藩主人名事典一』新人物往来社
  • 『寛政重修諸御家譜』

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