室町~戦国期の印東氏とは? わかりやすく解説

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室町~戦国期の印東氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:18 UTC 版)

印東氏」の記事における「室町~戦国期の印東氏」の解説

鎌倉公方仕えて奉公衆となった一族里見氏家臣となった印東一族がある。 鎌倉公方仕えた印東氏 平良兼下総守)から続くと伝わっている。代々鎌倉公方奉公衆となっている。 印東氏定伊豆守足利氏満より偏諱受けている。 印東勝胤伊豆守) 氏定の孫。鎌倉雪ノ下自刃したと系譜にあり、永享10年1438年)の永享の乱自刃した『印東伊豆守常貞』と同一人物か。 印東胤春出羽守) 勝胤(伊豆守)の跡を継いだ。『上杉宗房男』とされる印東次郎左衛門 鎌倉公方足利持氏仕えた応永23年1416年の上禅秀の乱で海上憲胤(筑後守)・海上頼胤(信濃守とともに上杉禅秀討った印東常貞伊豆守鎌倉御所奉行一人永享10年1438年)の永享の乱で持氏とともに自害印東下野守 常貞の子か。印東下野守は、足利成氏から下野国天命与えられ守護職小山持政助けるよう命じられている。この下野守系統印東氏代々下野国佐野庄を治めた思われる印東次郎左衛門・印東出羽介 室町末期古河公方足利義氏近臣として仕えた印東宮内少輔 古河公方発給文書宛先となる一色左馬助宛て足利成氏からの書にも印東宮内少輔の名がみえる。 「恐々謹言 依迷惑至極候、不園 御出行分候哉、驚入候、既年来甚忍候上者、前之思案以って嘆き敷き次第候可心安心候地等之事、巨細印東宮内少輔申しつけ恐々謹言」 —年不詳 十二月五日 一色左馬助 足利成氏からの書

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