室町~戦国期の印東氏
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鎌倉公方に仕えて奉公衆となった一族と里見氏の家臣となった印東一族がある。 鎌倉公方に仕えた印東氏 平良兼(下総守)から続くと伝わっている。代々鎌倉公方の奉公衆となっている。 印東氏定(伊豆守) 足利氏満より偏諱を受けている。 印東勝胤(伊豆守) 氏定の孫。鎌倉雪ノ下で自刃したと系譜にあり、永享10年(1438年)の永享の乱で自刃した『印東伊豆守常貞』と同一人物か。 印東胤春(出羽守) 勝胤(伊豆守)の跡を継いだ。『上杉宗房男』とされる。 印東次郎左衛門 鎌倉公方・足利持氏に仕えた。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で海上憲胤(筑後守)・海上頼胤(信濃守)とともに上杉禅秀を討った。 印東常貞(伊豆守) 鎌倉御所奉行の一人。永享10年(1438年)の永享の乱で持氏とともに自害。 印東下野守 常貞の子か。印東下野守は、足利成氏から下野国天命を与えられ、守護職・小山持政を助けるよう命じられている。この下野守系統の印東氏は代々下野国佐野庄を治めたと思われる。 印東次郎左衛門・印東出羽介 室町末期の古河公方・足利義氏の近臣として仕えた。 印東宮内少輔 古河公方発給文書の宛先となる一色左馬助宛ての足利成氏からの書にも印東宮内少輔の名がみえる。 「恐々謹言 依迷惑至極候、不園 御出行分候哉、驚入候、既年来甚忍候上者、前之思案誠以って嘆き敷き次第候可心安心候地等之事、巨細は印東宮内少輔に申しつけ候 恐々謹言」 —年不詳 十二月五日 一色左馬助 足利成氏からの書
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