室町時代から戦国時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 室町時代から戦国時代の意味・解説 

室町時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/06 16:48 UTC 版)

行松氏」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説

室町時代にはその家督山名師義の子・幸右馬允が継承した。そのため、行松氏山名一族同格扱われ他の国人とは一線を画す存在になっていた。大館尚氏記した大館常興書礼抄』には山名尚之被官として「幸八郎五郎二郎」の名が記されている。明応元年1492年)の時点山名氏被官として見え行松氏は、永正年間より始まる尼子氏伯耆進出尾高城追われ国外へ退去した。後に毛利氏傘下属した行松正盛永禄5年1562年)夏、毛利勢の協力得て尾高城復帰した永禄6年1563年)の末に正盛が病没すると尾高には杉原盛重入城、正盛の遺児杉原盛重によって養育された。正盛の死後杉原盛重によって尾高城乗っ取られた行氏は急速に勢力衰退させていった

※この「室町時代から戦国時代」の解説は、「行松氏」の解説の一部です。
「室町時代から戦国時代」を含む「行松氏」の記事については、「行松氏」の概要を参照ください。


室町時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/30 02:42 UTC 版)

宇多河荘」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説

1403年応永10年)、守護山名氏之宇多河荘大山寺寄進しており、前述のとおり、本家山門延暦寺)領であった宇多河上下荘の支配権大山寺譲与されたと推定される年月日不詳であるが戦国時代宇多河荘重書大山寺法明院渡っており、その後上下荘の支配権大山寺にあったとみられる

※この「室町時代から戦国時代」の解説は、「宇多河荘」の解説の一部です。
「室町時代から戦国時代」を含む「宇多河荘」の記事については、「宇多河荘」の概要を参照ください。


室町時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:47 UTC 版)

畠山氏」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説

建武3年1336年)に足利尊氏室町幕府創立すると、畠山家これまでの功績によって越中河内・紀伊の守護任じられた。足利家内紛である観応の擾乱では、庶流畠山国清足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢保ち、その一方で畠山家嫡流畠山高国・国氏父子は、観応2年1351年直義派の吉良貞家敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松移った奥州畠山家)。 本来の嫡流である奥州畠山家衰退する中で、畠山国清家系金吾家)が畠山家惣領格となる。国清は関東管領任命され東国南朝方と戦うが、その後鎌倉公方足利基氏対立し康安元年1361年)に失脚した。国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護任命され畠山家再興させる。義深の子畠山基国明徳2年1391年)の明徳の乱功績挙げるなどして足利義満信任を受け、能登守護任されるなど守護大名として力をつける応永5年1398年)には管領任じられ、同じ足利一門斯波武衛家細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。基国の子畠山満家義満には冷遇されたが、足利義持の代になってから表舞台復帰して管領就任する。満家の子畠山持国徳本)は、将軍権力の強化目論む足利義教干渉苦しめられるが、畠山家内紛鎮めて細川家山名家拮抗きっこう)する勢力維持した。 しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督めぐって激し争い起き、それが後の応仁の乱一因になった文明9年1477年)に応仁の乱終息後も義就流(総州家)と政長流尾州家)は内紛続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内内戦状態とする主因となったまた、畠山政長畠山尾州家)や畠山義堯畠山総州家)は管領就任したが、戦国末期両家それぞれ木沢長政畠山総州家)や遊佐長教畠山尾州家)による下克上起こった越中国守護代神保氏奪われ河内国も度々守護代遊佐氏脅かされたが、尾州家紀伊だけは最後まで勢力保った

※この「室町時代から戦国時代」の解説は、「畠山氏」の解説の一部です。
「室町時代から戦国時代」を含む「畠山氏」の記事については、「畠山氏」の概要を参照ください。


室町時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/13 14:12 UTC 版)

柴橋氏」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説

懐広は元政と共に南朝側として戦い討死したという。子の直于もまた、応安元年正平23年1368年漆川の戦い一族60数名と共に自害している。その後間氏を名乗るようになり、天文6年1537年伯耆守(明屋禅門)が郷目貞繁依頼し、「釈迦出山図」・「花鳥図」を寒河江本願寺寄進している。 最後当主出羽吉川氏大江元綱三男頼綱が入り勘十郎頼綱(羽柴頼綱)を名乗った。頼綱は寒河江氏17寒河江兼広執政務め男子のなかった兼広死後、兄である高基を兼広の女婿とし18代とした。最上義光寒河江兼広の間には最上義康後継とする約定があったため義光は怒り両家には確執生じることになる。天正11年1583年最上義光庄内武藤氏征伐に向かうと、寒河江高基武藤氏救援の軍を自ら率いるも、救援到着前に武藤義氏自刃天正12年1584年)、姻戚関係であった谷地城白鳥十郎が誘殺され最上氏谷地城攻めると柴橋頼綱救援向かった。しかし、救援甲斐なく谷地城落ちると最上氏寒河江攻略の軍を寄せ柴橋頼綱白鳥氏旧臣糾合して最上川越え中野山形市中野)まで攻め込むが、鉄砲隊伏兵遭い落命した。

※この「室町時代から戦国時代」の解説は、「柴橋氏」の解説の一部です。
「室町時代から戦国時代」を含む「柴橋氏」の記事については、「柴橋氏」の概要を参照ください。


室町時代から戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:33 UTC 版)

大光寺町 (青森県)」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説

大光寺曽我氏滅ぼされ年代その後経過については、互いに矛盾する史料伝承諸説があり定まらない下記はその主なものである。 大光寺葛西氏に関する諸説 正平4年1349年)- 葛西氏庶流葛西頼清が大光寺新城築いたという。 応永年間1394年-1427年)- 安東氏臣従する葛西頼清が大光寺入り南部氏と争うようになったという。 大光寺葛西氏滅亡に関する諸説 永享年間1429年-1441年)- 南部守行13南部氏当主)が大光寺攻め葛西頼清は敗死文明15年1483年)- 南部氏大光寺占領する文亀2年1502年)- 南部氏安東教季(安東惟季?)と葛西氏攻め滅ぼす天文2年1533年)- 南部高信葛西氏攻め滅ぼす葛西氏滅亡後安東師季が大光寺に入る。 文亀2年1502年)- 安東師季の後裔安東教季が南部氏によって放逐される。 南部氏支配下大光寺城に関する諸説 南部経行津軽郡代となり、大光寺入り以後大光寺氏称する以後その子、政行、さらにその子信愛(?-1570)が城代となる。信愛死後滝本重行城代となる。 葛西氏滅んだ後、南部政行大光寺城代となる 政行の子信愛大光寺城城主となる。 信愛1570年病死し南部氏家臣滝本重行?-?)が大光寺城城代となる。 元亀年間1570年-1573年)- 滝本重行弘前乳井氏を攻め領地を奪う。 津軽氏による支配 天正3年-4年1575年-1576年)- 大浦為信津軽為信)が大光寺城滝本重行攻撃翌年になって攻め落とす大浦家臣乳井建清大光寺城城代となる。 慶長4年1599年)- 津軽建広大光寺城主となる。 慶長13年-14年1609年)- 津軽氏家督相続問題津軽大熊事件)をめぐり、津軽建広追放される慶長15年1610年)- 津軽氏弘前城建設始める。大光寺城解体され弘前城移築される。 津軽氏新本拠として弘前城建築するにあたり大光寺城解体してその一部弘前城使用された。大光寺城大手門弘前城亀甲となったほか、石垣再利用されたという。

※この「室町時代から戦国時代」の解説は、「大光寺町 (青森県)」の解説の一部です。
「室町時代から戦国時代」を含む「大光寺町 (青森県)」の記事については、「大光寺町 (青森県)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「室町時代から戦国時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「室町時代から戦国時代」の関連用語

室町時代から戦国時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



室町時代から戦国時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの行松氏 (改訂履歴)、宇多河荘 (改訂履歴)、畠山氏 (改訂履歴)、柴橋氏 (改訂履歴)、大光寺町 (青森県) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS