室町時代から戦国時代
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室町時代にはその家督を山名師義の子・幸松右馬允が継承した。そのため、行松氏は山名一族と同格に扱われ、他の国人とは一線を画す存在になっていた。大館尚氏の記した『大館常興書礼抄』には山名尚之の被官として「幸松八郎、五郎二郎」の名が記されている。明応元年(1492年)の時点で山名氏の被官として見える行松氏は、永正年間より始まる尼子氏の伯耆進出で尾高城を追われて国外へ退去した。後に毛利氏傘下に属した行松正盛は永禄5年(1562年)夏、毛利勢の協力を得て尾高城へ復帰した。永禄6年(1563年)の末に正盛が病没すると尾高には杉原盛重が入城、正盛の遺児は杉原盛重によって養育された。正盛の死後、杉原盛重によって尾高城を乗っ取られた行松氏は急速に勢力を衰退させていった。
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室町時代から戦国時代
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1403年(応永10年)、守護:山名氏之が宇多河荘を大山寺に寄進しており、前述のとおり、本家:山門(延暦寺)領であった宇多河上下荘の支配権が大山寺に譲与されたと推定される。年月日不詳であるが戦国時代、宇多河荘の重書が大山寺法明院に渡っており、その後も上下荘の支配権は大山寺にあったとみられる。
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室町時代から戦国時代
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建武3年(1336年)に足利尊氏が室町幕府を創立すると、畠山家はこれまでの功績によって越中・河内・紀伊の守護に任じられた。足利家の内紛である観応の擾乱では、庶流の畠山国清は足利直義方に付くも後に尊氏方に鞍替えして家勢を保ち、その一方で畠山家嫡流の畠山高国・国氏父子は、観応2年(1351年)直義派の吉良貞家に敗れ自害し、国氏の子二本松国詮は二本松に移った(奥州畠山家)。 本来の嫡流である奥州畠山家が衰退する中で、畠山国清の家系(金吾家)が畠山家の惣領格となる。国清は関東管領に任命されて東国で南朝方と戦うが、その後鎌倉公方の足利基氏と対立し、康安元年(1361年)に失脚した。国清はそのまま没落するが、国清の弟の畠山義深がのちに守護に任命され畠山家を再興させる。義深の子・畠山基国は明徳2年(1391年)の明徳の乱で功績を挙げるなどして足利義満の信任を受け、能登の守護を任されるなど守護大名として力をつける。 応永5年(1398年)には管領に任じられ、同じ足利一門の斯波武衛家や細川京兆家とともに三管領家として名を連ねる家柄となった。基国の子・畠山満家は義満には冷遇されたが、足利義持の代になってから表舞台に復帰して管領に就任する。満家の子・畠山持国(徳本)は、将軍権力の強化を目論む足利義教の干渉に苦しめられるが、畠山家の内紛を鎮めて細川家や山名家と拮抗(きっこう)する勢力を維持した。 しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。 越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは最後まで勢力を保った。
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室町時代から戦国時代
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懐広は元政と共に南朝側として戦い討死したという。子の直于もまた、応安元年/正平23年(1368年)漆川の戦いで一族60数名と共に自害している。その後橋間氏を名乗るようになり、天文6年(1537年)橋間伯耆守(明屋禅門)が郷目貞繁に依頼し、「釈迦出山図」・「花鳥図」を寒河江本願寺へ寄進している。 最後の当主は出羽吉川氏大江元綱の三男頼綱が入り橋間勘十郎頼綱(羽柴頼綱)を名乗った。頼綱は寒河江氏17代寒河江兼広の執政を務め、男子のなかった兼広死後、兄である高基を兼広の女婿とし18代とした。最上義光と寒河江兼広の間には最上義康を後継とする約定があったため義光は怒り、両家には確執が生じることになる。天正11年(1583年)最上義光が庄内武藤氏征伐に向かうと、寒河江高基は武藤氏救援の軍を自ら率いるも、救援到着前に武藤義氏は自刃。天正12年(1584年)、姻戚関係であった谷地城主白鳥十郎が誘殺され、最上氏が谷地城を攻めると柴橋頼綱が救援に向かった。しかし、救援の甲斐なく谷地城が落ちると最上氏は寒河江攻略の軍を寄せ、柴橋頼綱は白鳥氏旧臣を糾合して最上川を越え中野(山形市中野)まで攻め込むが、鉄砲隊の伏兵に遭い落命した。
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室町時代から戦国時代
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「大光寺町 (青森県)」の記事における「室町時代から戦国時代」の解説
大光寺の曽我氏が滅ぼされた年代やその後の経過については、互いに矛盾する史料や伝承、諸説があり定まらない。下記はその主なものである。 大光寺葛西氏に関する諸説 正平4年(1349年)- 葛西氏の庶流、葛西頼清が大光寺新城を築いたという。 応永年間(1394年-1427年)- 安東氏に臣従する葛西頼清が大光寺に入り、南部氏と争うようになったという。 大光寺葛西氏の滅亡に関する諸説 永享年間(1429年-1441年)- 南部守行(13代南部氏当主)が大光寺を攻め、葛西頼清は敗死。 文明15年(1483年)- 南部氏が大光寺を占領する。 文亀2年(1502年)- 南部氏が安東教季(安東惟季?)と葛西氏を攻め滅ぼす。 天文2年(1533年)- 南部高信が葛西氏を攻め滅ぼす。 葛西氏の滅亡後、安東師季が大光寺に入る。 文亀2年(1502年)- 安東師季の後裔、安東教季が南部氏によって放逐される。 南部氏支配下の大光寺城に関する諸説 南部経行が津軽郡代となり、大光寺に入り、以後は大光寺氏を称する。以後、その子、政行、さらにその子、信愛(?-1570)が城代となる。信愛の死後は滝本重行が城代となる。 葛西氏が滅んだ後、南部政行が大光寺の城代となる 政行の子、信愛が大光寺城の城主となる。 信愛が1570年に病死し、南部氏家臣滝本重行(?-?)が大光寺城の城代となる。 元亀年間(1570年-1573年)- 滝本重行が弘前の乳井氏を攻め、領地を奪う。 津軽氏による支配 天正3年-4年(1575年-1576年)- 大浦為信(津軽為信)が大光寺城の滝本重行を攻撃、翌年になって攻め落とす。大浦家臣の乳井建清が大光寺城の城代となる。 慶長4年(1599年)- 津軽建広が大光寺城主となる。 慶長13年-14年(1609年)- 津軽氏の家督相続問題(津軽大熊事件)をめぐり、津軽建広が追放される。 慶長15年(1610年)- 津軽氏が弘前城の建設を始める。大光寺城は解体され、弘前城に移築される。 津軽氏の新本拠として弘前城を建築するにあたり、大光寺城を解体してその一部は弘前城に使用された。大光寺城の大手門が弘前城の亀甲門となったほか、石垣が再利用されたという。
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