畠山尾州家
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尾州家は金吾家から別れ、主に紀伊国と越中国に勢力を有した。 文明9年(1477年)に終結した応仁の乱の後、山城守護となった畠山政長は管領となったが、文明17年(1485年)に山城国一揆が起こり失脚、山城守護の任を解かれた。その後、細川政元と対立する10代将軍足利義材に政長は重用され、明応2年(1493年)には、遂に将軍自らによる畠山総州家討伐が実行された。しかし、その遠征中に細川政元、日野富子によりクーデターが起こされる。政長は子の畠山尚順を逃して討ち死にし、足利義材は将軍の座を失った(明応の政変)。 紀伊に逃れた畠山尚順は、足利義材を擁し周防国から上洛した大内義興や細川高国と結んで船岡山合戦に参戦し、総州家の畠山義英を破った。しかし、管領には細川高国、山城の守護職は大内義興が任命された。尚順は領国運営の為、嫡子の畠山稙長と二元政治を行なった。その後、管領・細川高国と将軍・足利義材が対立すると稙長は細川高国、尚順は足利義材に味方し、永正17年(1520年)に尚順は堺に追放された。しかし、畠山稙長も天文3年(1534年)に遊佐長教により追放され、その後はも畠山長経、畠山晴熙、畠山弥九郎と尾州家の当主が短期間に交代し、太平寺の戦いに乗じて稙長が再度復帰、稙長没後は畠山政国が名代となる。 天文20年(1551年)に遊佐長教が刺客により暗殺されると、政国の子の畠山高政が実権を復した。高政は、三好長慶、三好実休、三好三人衆と争い、足利義昭や織田信長と結んだ。その後、高政は隠居したが、天正元年(1573年)に義昭派だった弟の畠山秋高が信長派の遊佐信教に殺され河内守護家は滅亡する。高政は河内奪還を図るも果たせず、天正4年(1576年)死去した。 その後、高政の弟・政尚の子である畠山貞政は紀伊に拠点を移し勢力を盛り返した。貞政は徳川家康と連携するなど、羽柴秀吉に対抗した。しかし後に豊臣政権により放逐され尾州家は全領地没収という形でついに完全に滅亡した(紀州征伐)。 貞政の子である畠山政信は大和で放浪中豊臣家重臣の片桐且元に出会い、片桐家に仕官することとなった。人柄を認められ且元の娘婿となり片桐家重臣となる。政信は能書家としても極めて有能であり豊臣秀頼の祐筆として且元に推薦されることによって豊臣家の直臣となった。しかしやがて片桐且元が豊臣家から徳川家へと主人を変えると、且元の近親であった政信も豊臣家にいづらくなり豊臣家を退散し徳川家に仕えた。 徳川家康は名族好きで知られた戦国武将であり畠山家が河内紀伊大和を領した名家であることから江戸城内の典礼を司ることなどを命ぜられ将軍家近侍を仰せつかる。 政信の子孫は江戸幕府の高家の内の一家となって、その後も幕末まで家系は続いた。明治維新後の当主畠山基永は足利に復姓して士族となった。 歴代当主(畠山尾州家) 畠山持富 - 満家の三男。持国の弟。弥三郎、政長の父。 畠山政久 - 持富の子。政長の兄。弥三郎。名は義富とも。 畠山政長 - 尾州家の実質初代、紀伊国守護、河内国守護、越中国守護、山城国守護(管領)。 畠山尚順 - 政長の子、紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護。 畠山稙長 - 尚順の長男。紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護。 畠山長経 - 尚順の次男。紀伊国守護、河内国半国守護、越中国守護。 畠山晴熙 - 尚順の四男?。紀伊国守護、河内国半国守護。 畠山弥九郎 - 系譜不明。紀伊国守護、河内国半国守護。 畠山政国 - 尚順の三男?。紀伊国守護、河内国半国守護。惣領名代とされる。 畠山高政 - 政国の長男、紀伊国守護、河内国半国守護。 畠山秋高 - 政国の三男、河内国半国守護。 畠山政尚 - 政国の次男、当主ではない。 畠山貞政 - 政尚の長男。紀伊国の戦国大名。 畠山政信 - 豊臣秀頼の祐筆。徳川秀忠の近習。 畠山基玄 - 江戸幕府の旗本。
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