畠山総州家とは? わかりやすく解説

畠山総州家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:46 UTC 版)

畠山氏」の記事における「畠山総州家」の解説

総州家金吾家から別れ、主に大和国河内国勢力有した応仁の乱最中山名宗全細川勝元死去したのち、東・西両軍和睦進められる中、畠山義就講和反対し、文明9年1477年9月21日畠山尾州家の政長討伐のために河内国下り諸城攻略、政長派の守護代遊佐長直若江城から追い河内制圧した若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄古市澄胤らも大和国制圧、政長派の筒井順尊箸尾為国十市遠清没落し、義就は河内大和事実上支配者となった一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日東西両軍の間で講和成立し西軍解散した文明14年1482年)に幕府の命を受けた管領畠山政長細川政元連合軍が義就追討出陣したが、義就はこれを撃退している。 義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年1493年)に10代将軍足利義材畠山政長主力とした幕府軍追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター明応の政変)が勃発し細川政元同盟した義豊は、逆に畠山政長自刃追い込んだ。政長の子・畠山尚順紀伊逃れた。しかし、明応6年1497年)、義豊の家臣遊佐氏誉田氏が内紛起こし、これに乗じた畠山尚順紀伊挙兵居城河内高屋城尚順落とされ、義豊は山城逃亡明応8年1499年)に河内戦死した。 義豊の子の畠山義英細川政元後援の元、畠山尾州家との戦い優勢に進めたが、義英は畠山尾州家和睦し細川政元対立した。更に、永正4年1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城奪い返したその後両細川の乱において、義英は阿波国細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し足利義材擁する細川高国大内義興畠山稙長幕府軍に対して抵抗続けた畠山義堯重臣木沢長政補佐を受け、大永7年1527年)、細川高国桂川原の戦い敗れて高国政権崩壊すると、阿波国細川晴元擁していた足利義維和泉国堺に上陸し堺公方成立した義堯管領就任し阿波細川家重臣三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴戦っている(川勝寺口の戦い)。さらに、享禄5年(1532年三好元長と共に離反した木沢長政居城飯盛山城攻囲し戦局優位に進めていたが、木沢長政支援現れ一向一揆敗れて義堯自刃した(飯盛城の戦い)。 家督義堯の子畠山在氏継いだ。しかし実権木沢長政掌握しており、天文11年1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政三好長慶遊佐長教により敗死すると、木沢長政勢力中核はかつての総州家被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家実質的に滅亡した。なお、在氏の子畠山尚誠足利義昭の上洛を助け義昭による足利将軍家継承実現させた。これには、尾州家協力したその後消息不明である。 歴代当主(畠山総州家) 畠山義就 - 河内国守護紀伊国守護越中国守護 畠山義豊 - 河内国半国守護 畠山義英 - 河内国半国守護 畠山義堯 - 河内国半国守護管領畠山在氏 - 河内国半国守護 畠山尚誠

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