畠山総州家
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総州家は金吾家から別れ、主に大和国と河内国に勢力を有した。 応仁の乱の最中に山名宗全と細川勝元が死去したのち、東・西両軍の和睦が進められる中、畠山義就は講和に反対し、文明9年(1477年)9月21日に畠山尾州家の政長討伐のために河内国へ下り諸城を攻略、政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い河内を制圧した(若江城の戦い)。また、義就派の越智家栄と古市澄胤らも大和国を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。一方、京では義就が河内方面に下向後の11月11日、東西両軍の間で講和が成立し、西軍は解散した。文明14年(1482年)に幕府の命を受けた管領の畠山政長と細川政元連合軍が義就追討に出陣したが、義就はこれを撃退している。 義就の跡を継いだ畠山義豊は、明応2年(1493年)に10代将軍足利義材と畠山政長を主力とした幕府軍の追討を受けるが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)が勃発し、細川政元と同盟した義豊は、逆に畠山政長を自刃に追い込んだ。政長の子・畠山尚順は紀伊に逃れた。しかし、明応6年(1497年)、義豊の家臣の遊佐氏と誉田氏が内紛を起こし、これに乗じた畠山尚順が紀伊で挙兵、居城の河内高屋城を尚順に落とされ、義豊は山城へ逃亡、明応8年(1499年)に河内で戦死した。 義豊の子の畠山義英は細川政元の後援の元、畠山尾州家との戦いを優勢に進めたが、義英は畠山尾州家と和睦し細川政元と対立した。更に、永正4年(1507年)に起きた永正の錯乱直後に、高屋城を奪い返した。その後の両細川の乱において、義英は阿波国の細川澄元の娘を子の畠山義堯の妻に迎えて同盟し、足利義材を擁する細川高国、大内義興、畠山稙長ら幕府軍に対して抵抗を続けた。 畠山義堯は重臣の木沢長政の補佐を受け、大永7年(1527年)、細川高国が桂川原の戦いに敗れて高国政権が崩壊すると、阿波国の細川晴元が擁していた足利義維が和泉国堺に上陸し堺公方が成立した。義堯は管領に就任し、阿波細川家の重臣の三好元長と共に細川高国派の朝倉宗滴と戦っている(川勝寺口の戦い)。さらに、享禄5年(1532年)三好元長と共に、離反した木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し、戦局を優位に進めていたが、木沢長政の支援に現れた一向一揆に敗れて、義堯は自刃した(飯盛城の戦い)。 家督は義堯の子の畠山在氏が継いだ。しかし実権は木沢長政が掌握しており、天文11年(1542年)の太平寺の戦いにおいて木沢長政が三好長慶と遊佐長教により敗死すると、木沢長政の勢力の中核はかつての総州家の被官だった国人衆であったため、長政と共に総州家も実質的に滅亡した。なお、在氏の子、畠山尚誠は足利義昭の上洛を助け、義昭による足利将軍家継承を実現させた。これには、尾州家も協力した。その後の消息は不明である。 歴代当主(畠山総州家) 畠山義就 - 河内国守護、紀伊国守護、越中国守護 畠山義豊 - 河内国半国守護 畠山義英 - 河内国半国守護 畠山義堯 - 河内国半国守護(管領) 畠山在氏 - 河内国半国守護 畠山尚誠
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